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2014年12月12日 (金)

助詞の処理にてんやわんや……やっぱり志賀直哉は偉い

 助詞の使い方についてどう伝達するか、というのは大問題です。ある意味で、一番難しい問題かも知れない。かなり日本語が使いこなせる、聞き取れるという学生さんでも、助詞の使い方についてはしばしば間違います。そりゃ無理がないので、中国語の助詞と日本語の助詞とはずいぶん違う。そもそも、中国語には、はっきりとこれが助詞だ、という単語は、場所を示す「在」と、所有・所属・傾向を表す「的」ぐらいしかない。私は「着」や「地」も助詞じゃないかと思ったけど、中国人の先生は「それは助詞じゃありません」とおっしゃる。いずれにしても、多くの大学生は自らの母語である中国語との関連において(翻訳、という行為がすでにそうだ)日本語を理解してゆくのだから、こと「助詞」になると思考がストップしてしまうのも無理はない。

 ちなみに、中国人の先生は文法を教えるのに、ものすごく原則と理論を大事にする。第一類の動詞に「ます」を付けると活用語尾は「咲キ・ます」「走リ・ます」のようにイ段音になります、というあれだ。もちろん例外が存在する。すると例外も体系化して説明する。中国の学生はものすごく記憶学習が得意だから、あっというまに覚えてしまう。その試験をすると必ず満点を取る学生がいる。

 しかし、大なり小なり、助詞ではつまずく。

 「このクラスの学習委員は誰ですか?」の答えは、「私が学習委員です。」だ。「が」である。

 「あなたの役職は何ですか?」の答えは、「私は学習委員です。」だ。「は」である。単純なそのことなら理解できるし、二度と間違わない。しかし同じように「が」と「は」の使い分けができる(応用できる)かというと、怪しい。そもそも、「私が学習委員です」も「私は学習委員です」も、中国語に訳すと「我是学習委員」でしかない。助詞によって文脈を変えることのできない構文がここにある。「私は5元しかありません」という日本文の訳を聞くと、多くの生徒が、「我只有5元銭」と書く。否定文が肯定文になる。「しか」という微妙な助詞は存在しないらしい。

 ハルピン時代から、「あなた方が最初に躓くのは助詞、最期まで問題として残るのも助詞」と、言い続けてきた。これを体系化して説明するのは(記憶させるのは)無理なのではないかと思う。相当に成績のいい生徒でも、時に混乱する。だいたい、日本人教師が体系化して説明しようとしても、文法の専門家からして違うじゃないか。井上ひさしは「私家版日本語文法」の中で、「は」は広く、大きくかかる。「が」は、小さくきっちりとかかる。と説明した。学術書じゃないからいいが、(これは読み物だ)こんなところで「かかる」なんて曖昧な言葉を使っちゃいけない。まずは、井上碩学にして、この解説には困ったということだ。モントリオール在住の金谷武洋先生の「日本語に主語はいらない」を丹念に読むと、「『は』は文の主題を示すのであって主語の提示をしているのではない、『が』は直後の活用語の動作主体を提示しているのであってこれも主語のありかを示してはいない。」と、読める。こっちのほうが私の頭に理解しやすいが、しかしもちろん、時枝先生や大野先生が生涯を掛けて明らかにされた(明らかにしようとされた)内容とは違う。

 しかたなし、私は教室でこのように言う。

 「原則は存在しない。申し訳ないが覚えてくれ。見たことのない助詞の用例を見たら口の中で一回つぶやいて、次にそれを使う瞬間が来たら思い出してくれ。」という。それが、どんなに中国の大学生の勉強方法から乖離しているか、私にはわかる。でも、こう言う。そうでないと、

 1、「象は鼻が長い。」

 2、「桜は四月に咲く。」

 3、「背が低いと言っても155センチはあります。」

 ……などと、同じ「は」でも何種類もあることを説明しないといけない。これが、「が」において、「も」において、「の」において、同じように起きる。

 

 本当に中国の大学生がかわいそうだ。いや、ここは、「は」かな?

 志賀直哉は、偉かったのかもなぁ。

 「私はフランス語は一語も解し得ぬが、国語は世界一明晰で世界一美しいフランス語にするべきだ。」と発言なさったのだ。偉いなぁ。とても偉い。万が一そういうことになったら、日本語に守られて作家になった谷崎の作品も、壊れやすいガラス細工のような(実は)文体で書かれた中上の一連の紀州シリーズも、日本文学には登場しなかったわけだが。

 

 つけたし。

 「椅子は3つしかありませんから私が立っています。」この場合の「が」は、私、が、立つ、他の誰も立ちません、私、だけ、が、立ちます、そういう文意を創っているのです、と説明しました。

 ふと学生のノートを見ると、「強調表現」と書いてあります。えっ、と思って別な学生のノートを見ると、そこにも「が=強調」と書いてあります。強調ではありません。強いて言うなら、「強い特定」です。でも、今までの学習の中に「強い特定」なんてセクションはなかったんだろうな、と思いました。

 やっぱり志賀先生は偉い。1950年代にやっぱり日本人は母語を放擲してフランス語を導入するべきだった。もっとも今頃、トヨタもホンダも存在しなくて、日本の機械屋は、☆☆☆☆(4文字)や☆☆☆☆☆(5文字)みたいな間抜けな車しか造れなかっただろうけど。

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