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2014年11月13日 (木)

なおもコミュニケーションについて考えること

 全盲の方との、講演会(特別授業?)をめぐっての打ち合わせ、当日の会場案内、その他一連の交流機会をめぐって、「コミュニケーションについて考えた」という内容のメールをうけとったのが、つい先日。

 通常の視覚情報を共有してそれをもとに「あそこにですね、こっちがですね、ここにあるのが……」というような会話をしている私たちが、それら前提のうちかなりの部分を取り払うか、少なくとも再点検しないといけないとなったら、コミュニケーションは大変なものになるに違いない、しかしその大変さを、楽しんでしまう人がいる、ということを知った、メールではありました。

 私はいつまでも考えています。

 私の言ったことは伝わっているだろう、相手の言ったことを私は理解しているだろう、という思いのもと、私たちは日常、行動しています。少なくとも必要なことは伝わっているはずだ、自分は理解しているはずだ、という観測でありますが、それは確信ではないし、ひょっとしたら誤解で、「思いこみだった」のかもしれない。

 伝達行為において私が必死になった、という経験が、少なくとも1回はあります。

 ある冬、私たちはアイルランドにでかけました。家族全員であります。なんでそんなことをしたのか、衝動的というほか、ない。子どもがまだ小さいうちに海外を見せておきたかったのだけど、何が目的だったのですか? 具体的に子どもに身につけさせたかったことは何なんですか? といくら聞かれてもわからなかったのであります。そもそも、目的とか狙いとかいう言葉自体、非常にうさんくさい。行きたかったから、行ったのであります。

 それはそれとして。

 ツアーじゃないし現地に友人がいるわけでもないので、すべてのことを自分の能力で処理しないといけない。自分でチケットを買い空港インフォメーションでホテルを予約する。当たり前だけど空港からホテルまでも自分で行かないといけない。タクシーが良いのかそれじゃ無理でバス路線を探さないといけないのか、それも自分で聞くしかない。あの、すべての旅を居間にいながらするかのように快適にする名著「地球の歩き方」を持っていなかったので、まぁ今の時点で考えるなら、正気の沙汰じゃない。更にさらに、インドの時のように自分一人だったらまだしも気楽でありますが、中2、小6、小4、と3人の子どもがいる。人生であれほど必死になったことはそれまでなかったしそれ以降にも経験しない。そもそも私の英語力は日本の中学2年生の5月頃のレベルであります。

 ロンドン、ヒースロー空港のエア・リンガスの待合室で、私は3人の子どもと奥さんをイスに座らせ、必死で空港アナウンスを聞き取っておりました。でもわからない。ロンドンからダブリンまではほんの2時間ぐらいのフライトに過ぎないのだけど、搭乗ゲート番号がしょっちゅう変わる。アナウンスが有るたびに私は手元のチケットを確認して自分たちの飛行機がそれに該当していないことを確認するのでありますが、それでも私はミスしたらしい。搭乗時刻が迫っているのに、付近の乗客の動きがどうもおかしい。

 カウンターに行ってみました。エア・リンガスの地上職員というのは揃いもそろってものすごい美人であります。髪をきっちりと後ろに束ね、形の良い顔と額をすっかり露出させた彼女は、「あら、その便なら搭乗ゲートが46番に変更になっているわよ」「冗談だろう!」「ちゃんとアナウンスしたじゃない」空港アナウンスなんて、中2英語の耳に聞き取れるわけがない。でも私は黒髪とエメラルド色の瞳のコントラストが印象的な職員さんに礼を言い、方向を確認すると、3人の子どもの手をひっつかみ、直径4メートルのチューブみたいな空港内の通路を、全速力で走ったのでありました。

 到着したゲートの待合室で、もう私は失敗を犯さないように、アナウンスがあるたびにそれがどんなに短くても、そばの乗客に「今、なんていったの?」と聞き、理解するようにいたしました。

 「今の放送は?」「ゲート変更だけどあなたの飛行機じゃないよ」「ほら、また放送があった」「スキポールからの★★★便は霧のために到着が遅れている」「今回の放送は?」「ダブリンの天候は雪だ」……だんだん、落ち着いて新聞を読みたいハンチング姿の中年のおっちゃんは私をうとましく思う様子なのでありますが、私は質問をやめるわけには行かない。

 「そんなに苦労して家族連れで未知の国に旅する必要なんてないじゃないか」という考え方も、あるのかもしれない。じゃぁ言葉の通じる日本でのコミュニケーションは万全なのか、というと、それはそれで疑問が、あるのであります。

 それ以降も、1軒のB&Bの予約が、1回の食堂での食事が、1つのレタスを買うことが、1本のバスの乗り場探しが、どんなに難しかったか、しれない。見渡す限り何にもない丘の上で家族5人で途方に暮れたこともある。しかし、1つの言葉の意味の把握にあれほど狂奔したことはないし、それがたまさか成功した時の喜びも、ないのであります。すべての思い出が鮮明であります。

 小学校4年生の次男の行動が面白かった。

 彼は、1アイリッシュポンド、10シリング、25シリング、その程度の小銭をポケットに入れて駅や道路のスタンドを訪問するのがむやみに嬉しいようでした。英語はひと言もしゃべれないので、スタンドで小さな……ガムやキャンデーみたいな……商品を手にして小銭を差し出す、そして釣りを受け取る、そのやりとりが楽しみになったのであります。彼にとってはそれが「コミュニケーション」だった。通貨が、言葉だったのであります。

 今、どういうわけか彼は、カナダにおります。

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