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2014年9月26日 (金)

生まれて初めて事件の被害者のために泣く

 生まれて初めて、事件の被害者のことを思って泣く、という体験をいたしました。

 925日木曜日、私は中国入りのビザを受領するために、札幌市内を四輪車で走行していたのであります。午前10時頃、中華人民共和国駐札幌総領事館到着、ビザの受領自体は、あっけなく終了いたしました。その安心感もあったのでしょう、札幌中央区の道路を走行していて、ふと左を見ると、小学校のグラウンドが。

 そこに、(当たり前ですが)小学生がいました。体育の授業でしょう、元気よく、グラウンドを駆けていたのであります。

 ぷしゅっと、本当にその音が聞こえるほどの勢いで、ぷしゅっと、勢いよく目から涙が出て参りました。

 神戸の女子児童は、今もこうやって無心に体育の授業を受けているはずだったのだ。

 私は、子どもが死ぬのは許せません。受け入れることができません。小学校1年生の児童が、6年やそこらしか生きていない子どもが、親より先に、理不尽な暴力によりある日とつぜん生命を奪われる。

 絶対に受け入れられない。

 札幌の小学校の横を、泣きながら走りました。神戸で被害に遭った女の子も、命があれば今自分が見ているような光景の中に、いたのだと思いました。当たり前に自校のグラウンドを、無心に走り回っていたのであります。いったい世界の誰が、彼女の身の上に降りかかる今日の運命を予測したか。

 事件であれ事故であれ病気であれほかのなんであれ、私は子どもが死ぬことは許せないし認められない。誰かが手を下して神戸の6歳の女の子は世を去ったのだけど、彼女を直接に知る近親者にとっては1人の命が奪われたのじゃない、その悲しみと苦しみは、全世界の、全宇宙の消滅と、まったく等価であります。等量であります。

 犯人は、私がこれを書いている今なお、わからないままのようです。

 子どもの命を左右するということが、そんなことができるということが、私はよくわかりません。すべての大人には、これからを生きる年少者のすこやかな生育を保障する義務があります。時には、自らの命に代えてでも。しかし世界のどこかにはそうじゃない者もいる。子どもの命を自分の意思で左右することができるという狂いきった奇怪奇妙な「全能感」を犯人は持っていたわけだが、そんなのはもちろん間違っている。しかし彼(?)がそれを持つに至った、その人生の経過の中には、言いようもない不幸があったことだろうと、思いました。激烈な不幸を体験すると、その人は成長するにつれ、心うちどこかに、自分には何をしても許される運命の加護があるのだ、という間違った、狂いきった思いが生じるものだからであります。愛されなくて育つ、人生のある時期を経験した人間は、どこかで社会の平穏を取り返しのつかない形で損壊する、その暴力衝動を自らのうちに抱えることになります。

 俺だけは、☆☆をしても許されるのだ、逮捕なんかされないのだ、という誤った全能感であります。

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