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2014年9月 4日 (木)

平川克美さんの書籍を2冊読みました

Maruka0011


 平川克美さんの書籍を、続けて
2冊、読みました。

 あらためて、この国の将来がどうなることを自分は望むのか、と考えました。

 1951年生まれの私は間もなく人生から退場しますが、子どもはしっかり3人いて(1人は名字が変わったけど)これから、の時を迎えます。

 経済力という面から見るなら、日本の衰退は明らかであります。そんなもの認めない、そんなはずはない、と言いたがる人がいることは承知していますが、あのゴルバチョフが北極の近くの寒い都市で「二十世紀、もっとも経済的に成功を収めたのは日本である」と演説した1989年をピークに、日本はゆるやかに下り坂に入ったのであり、その動きを止めることに成功した政治家はおりません。そんなことできないほうがいい。

 世界初の株式会社が東インド会社であり、それがオランダで1600年に設立されたことは私でも知っている。何か大きなことをするのに資金が必要だった。資金を集めてしかる後に事業を開始する。事業の結果得られた利益を、資金を提供した人に振り分ける。

 東インド会社を設立した人がその時点でこのシステムの有限性に気づいていたかどうかは疑わしい。でも400年が経った今は誰でもが容易に知ることができる。株式会社というシステムは永続しない。あらゆる「出資・利益の配分」システムは、AよりBの方が大きいということを前提にして成り立つ。いわゆる「右肩上がり」だが、それがもう先進国から順に終わる。出資で得られる利益が保証されるためには市場の未成熟性が前提だが、今そのスペースはどんどん狭くなる。西暦1600年、「出資金」を満載してオランダの港を出港した船の行く先は大海原でありインドという無限(?)の資源を有する可能性の大地であり更にはその資源を高額で買う人々の場所であったわけだが、当たり前だが400年続いた商業行為の中でそれは消費尽くされた。

 出資しても利益が約束されない、それでも出資しようというバカはいない。全世界が均質になってゆくとき、株式会社というシステムは終焉に向かう。それはそれで健全なのだが、認めない人もいる。アメリカは、株式会社というシステムが有限であるはずがないという妄言で満たされた架空の国家であり、その架空は架空でいることを拒否して「なおも未成熟である市場と資源の大地」を求めた。

 こうしてグローバリズムという言葉が誕生した。インドは有限だった、中国もそうだ、中南米もそうだった、アフリカも早晩そうなる。しかしなお全地球的には人口は増え続けているという妄言を必要とする人がいた。そうでないと株式会社は存在しないからだ。

 株式会社の経営者(と、出資者)はそうかもしれないが1人の人間としてのワタクシは、それを妄言だと認識して貧乏を受け入れることができる。できなくても受け入れないといけないと思う。勇気をもって言ってしまえば、経済的に豊かな時代とそうでない時代と、1人の国民としてワタシが幸福でいられるのはどっちか、わからないと思う。

 そんなバカなことがあるものか、と言われるだろうことはわかる。しかしバカというなら、市場が永遠に「先進国のために・地球上のどこかには」存在するはずだというバカと(これをグローバリズムという)どっちが罪深いバカか、わかったものではない。

 商業行為というのは、ある商品を保有している誰かが付けた値段とそれを必要としている誰かが付けた値段に傾斜があるということを前提としている。どんな時代であろうと変わらない真実だ。キューバに生えている1本のサトウキビの価値が故国とニューヨークで違う、それを前提として商業行為は成立した。

 そしてそれは、永続しない。恐ろしいことに(同時に、待ち遠しいことに)その1本のサトウキビの値段は両者で均等になる。商業行為の意味がなくなる、ないし意味が「変質」する日がいつか来る。

 そんなことはないと、ある人が言う。それならその人は、複数回起こった石油危機といま中国で起こっていることを説明する義務がある。説明できないなら、やがてワタシはみんなと一緒に貧乏になってゆくということを受け入れないといけない。

 貧乏と、物質的な飽満と、どちらが幸福か、それは人による。サン・テグジュベリの小説には、飲めば喉が渇かなくなる薬を開発して大もうけしようという実業家が登場する。その話を聞いた星の王子様は、ボクにとっては喉が渇いた時に泉に向かって歩いてゆく、そのゆっくりとした時間が幸福だ、と語る。

 哲学だ。この実業家と王子様とどっちが幸福か、それもまた「人による」。

 投資に意味がなくなる日が、実はすぐそこに迫っているのではないかという風にワタシは考える。とすると、グローバリズムに身を寄せる政権を「売国」と呼ぶことに合理性があるということだ。アメリカという架空の国家に、日本という実質の、にんげんの生活の場所が、身を寄せたのは(身を寄せざるを得なかったのは)実は歴史的にはきわめて限られた短い間だったと、振り返る日が来るだろう。その時にはワタシはお墓の中にいるが。

 

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