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2014年7月27日 (日)

北斎もピカソもまず「音楽家」だった

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 「あなたの言うことは、時々分からない」と言われます。時々でも分かってもらえりゃたいしたもんだよと思うのでありますが、そのように言うと「ほら、それがもうわからない」と言われるのであります。

 私の言うことが分かったところで、何か利益になるとも思えません。基本的にこのブログは、私の「生存報告」であります。「Still alive」とたったの2語を書き込めばそれで充分なのでありますが、基本的に私の中に、「分かりやすすぎるもの」への嫌悪というか不信がある。それに「Still」と書くなら、それに続く最良の言葉は「I am sad」でありましょう。

 悲しい事なんて何もないけど。

 自分でも何を書いているかわかんねぇや。

 

 ところで。教えて欲しいことがあります。

 小澤征爾さんが森進一とテレビの某番組で顔を合わせたとき、冗談でオーケストラのタクトを振ったら、森さんはもちろん上手に合わせて歌ったけど視聴者の中から、「クラシックの専門家だからといって演歌の専門家じゃないだろう」という反発の声が上がったらしい。

 それ、非常に有名な作家だったらしい。その作家の名前、ぜひ知りたい。誰か教えてください。わかったら、今本棚にあるその人の書籍、みんな捨てちゃう。

 クラシックの専門性、演歌の専門性、どっちかに優位性を感じているわけではない、小澤さんにとってはどっちも、大切な音楽なのだ。彼の今までの発言を読めば、そんなこと明かだ。ニューヨークではルイ・アームストロングのためにオーケストラを指揮しているんだから。藤圭子さんを深く愛する人なんだから。(そのわりには、宇多田ヒカルさんが藤さんの娘だと、村上春樹さんに教えてもらうまで知らなかったらしいけど、そんなことどうでもいい)

 

 あらゆる音楽に共感をしつつ、小澤征爾さんは音楽活動をしている。ジャンルを超えたというと坂本龍一さんもそうだけど、本当に立派だと思う。そもそも音楽に本当に「ジャンル」があるのかどうか、私は知らない。分かってもらえないのを平気で書くのだけど、世のオーディオマニアの中には、「俺が組んだセットなのだからジャズは鳴るが弦は鳴らない」という人がいる。それ、単にあなたのセットが未完成だということです、といいそうになる。

 

 意味不明ついでに言うなら、私はすべての芸術の基本に音楽があると思っている。優位じゃない、基本だ。文章に音楽的なリズムがない文章は読めない、そんなの小説にならない。小澤さんは、機械の解説書がどうしても読めないらしい。3行読むと脳髄が拒否反応を示すという。その発言に「それは文章に音楽がないからですよ」と解説を与えたのは村上春樹だった。中上健二の(字あってるかな)「紀州」を読む。ごうごうと鳴る和歌山県の土着の音楽に、中上の言葉が乗っている。他の作家も同じだ。それがないと、読めない。わかる。そもそも日本人は必ず言葉を「歌った」じゃないか。

 絵画も同様である。モネの睡蓮の絵に、ドガの踊り子に、音楽を聴き取る鑑賞者は私だけではないだろう。彫刻も写真も同様だと思う。私はこじつけているのかも知れないが、制作者の、鑑賞者の体の、生体のリズムのようなものがそこには刻まれていると本気で思っている。

 私はアルフォンス・ミュシャが好きでクリムトが好きで、しかしマックス・エルンストがうまく体の中に入ってこない。バルテュスとなるとまったく五感が反応しない。それは色彩とかデッサンへの感情移入もあるのだろうけど、バルテュスの絵から聞こえる「音楽」が私の未熟な音感でとらえられないからだと、思う。

 

 すべての芸術の基本に(何度も繰り返すが『優位』じゃない)音楽がある、という考えは少なくとも私の心を安らかなものにする。すべての画家は、すべての小説家は、彫刻家は、まずは「音楽家」だった。

 逆じゃない、残念ながら、そして、当然ながら。

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