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2014年7月29日 (火)

眼前の我が子からの「逃避」を行いながらそれを「逃避」と自分で気づけない

 10年続けた「命の大切さを教える教育」はなんだったのか、とか、1997年の神戸の事件の時に教育関係者が得た「教訓」はどう生かされていたのかとか、様々なことを、こういう時にそういうことを「いわなければならない立場の人」がおっしゃっているようです。もちろん、いつもの「判断停止」です。

 論はいつも「日本全体」をめぐって堂々巡りしていて、それでも何かしらの「動機」のようなものを「発見」あるいは「創作」して、多くの人が「あぁよかった、うちの子はそれには該当しない」と安心するに足る嘘の「結論」がどうしても必要で、多くの記事が書かれているようですけど、無理があります。

 私は、全体のことなどほっておいて「個別」に見つめないと何もわからない、と思っていました。他ならぬ、たいせつな「我が子」の想像力はどうなっているのか、スポーツの研鑽も芸術活動も「想像力」がないと決してできないが、その想像力なるものは時に暴走することはないのだろうか、暴走させないために私は、1人の子どもの親として、時に巨大な、その「想像力のエネルギー」を緩和する、どのような「装置」を家庭の中に構築してきたのだろうか。

 評論家になるのは簡単であります。私でもなれます。有識者にだってなれます。関係のないところに立って責任をとれと言われる可能性のない一般論を振りまいていれば有識者です。もちろん私にでもなれます。

 しかし、評論家や有識者が何か現実の個別の家庭に対して、もしくは1個の教室に対して、有効性のある指針が示せたかというと私はそんな例は皆無だと思います。綾瀬から、黒磯から、須磨区から、そして10年前の佐世保から、ずっとそれらの人々がやってきたのは一般論であり暇つぶしです。なすべききちんとした論議を回避し、何かをしゃべっている振りをしてその事件が持つ大きな「意味」を無意味に消費してしまったという意味で、有害なことをしてきた、といった方がよろしいかと思います。

 もう、いい加減にした方がいいのじゃないでしょうか。ごくごく特殊な(特殊だと思える……特殊だと思いたい……)案件を引き起こした1人の15歳の特殊な「動機」を探り当て、「俺の子は大丈夫だ」と思わせるためにメディアは働いてきたのだけど、想像力の暴走の可能性を秘めた子とそうした暴力性はとりあえずないと判断できる子と、明らかな区別はとっくの昔に無効であると、いい加減に気づいたほうがいいのじゃないでしょうか。子どもは11人個別であり、そこにいる「あなたの」子どもに対処する参考にはいっさいなりません。「あぁよかった、うちの子には該当しない」と思うことは単純に「逃避」であると、いい加減に気づいてもいい時期です。

 日本全体のことなどどうでもよろしい。なんで佐世保ばかり? 佐世保に何が? という論議をするのも無意味です。私が育てているかけがえのない1人の子どもが、あふれる想像力をどう「自分で」制御して「子どもなりに」現実世界の秩序と適合して生活しているのか、その、情報過多の社会にあっては「けなげ」というほかない子どもの自己の制御に、親として自分はどう寄り添っているのか、そのエネルギーの放散の方法を自分は果たして教えているのかどうか、と自問するべきです。

 入ってくる情報量に比して経験がとぼしい、そのようなすべての15歳の想像力は大人が考えるより遥かに「豊か」で多様です。はっきりと申し上げて、子ども時代にただの一度も親に対して加害の衝動を感じたことがないという子どものほうが、むしろ少数なのではないでしょうか。深夜金属バットを持って親の枕元に立つ自分を空想することは、それだけなら異常でも何でもないのであります。それどころか、その空想は、負の凶暴なエネルギーを夢の世界に向けて解き放つ(私はよくこの話をするとき、「消費」という言葉を使う)有効な方法ですら、あります。動物の解剖も同じくであります。

 想像が凶暴性を帯びるのを止めることはできないし、止めるべきでもありません。

 しかし、それが「実行」されるのはきわめて異常だ。本来はそうした異常行為の抑止は、子どものそれまでの経験が有効に作用します。忍者のように石垣を駆け上がってみたい、できるはずだ、と夢想する子は、地上3メートルから転落して痛い思いをした「経験」の記憶に立ち返り、その「異常行為」を思いとどまるのであります。そして、猫の解剖は、1回目からすでに異常なのでありますから経験があるということは反省する前に異常行為の完遂者としてすでに危うい人間でいることになる。学習機会は、ない。だから子どもは類似の「経験」をそこに持ってきて、今から自分が行おうとしている行為が人生を損なう異常なものかどうか計量する。とすると、その類似の経験が多いか少ないかが問題となる。

 子どもが人倫にもとる行為をしたときには、速やかに罰するのがよろしいでしょう。それが今後の人生を展望するに危ういほどの行為であると判断した場合には、顔の形が変わるほど殴ることもやむを得ないでしょう。私はそうして親としての重要な時期を送りました。現在29歳の我が娘は、はるかな昔、一匹の蛙の命をないがしろにしたために親からどのような叱責を受けたか覚えていない。更に、だからこそ二匹目の蛙の命が彼女の責任じゃなくないがしろにされたときには彼女はさめざめと泣いたのだけど、そのことも覚えてない。覚えていなくたっていいのだ、何かが彼女の中で「軟着陸」し、危うい行為から距離を置ける人間に「少し」なった、という全体的な記憶で充分である。

 「いったい日本の子どもはどうなっちゃったんだ」

 「日本の学校じゃ何をやってるんだ」

 という一般論にするあなたは、アホなのではない。アホよりもっと悪い。

 それは、真剣に考えるべき「個別」からの逃避だ。過ちはあなたの足もとから、拡大再生産されるだろう。

 

 そして。最後に。

 まぁ学校の校長先生の言葉というのは(つねに権力側に都合のいいことしか言わないから)99%までが嘘か、無意味だけど、あるいは嘘で無意味だけど、ある校長がこんなことを言っていた。

 

 「人を殺してはいけないのはなぜですか? と質問されて答えられない教員が多いのではないか?」

 

 私は思わず、あんたは答えられるのか、と新聞紙面に向かって叫んでいた。

 この校長の、自分の答えが聞きたい。命の大切さ……のようなのが回答だったとしたら、質問者はすかさず「じゃぁどうして日本には死刑制度があるのですか?」とたたみかけるだろう。

 過去にこの問いに答えたのは、私は井口時夫、1人だと思う。(書名は『暴力的な現在』)なにしろ、この問いには、ノーベル賞を取った大江健三郎も有効な回答をなしえなかったのだ。

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