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2014年7月30日 (水)

反社会的な空想のエネルギーを「消費」すること

 もう、遥か前のことですけど、思い出したことがあります。

 私は33年の教員経験中、5つの高校を渡り歩きましたがさてどこだったか……。

 ある国語の教員が、生徒に作文を書かせました。女性教員で、国語科には実に珍しいことに美人でスタイルのよいシングルでありました。彫りの深い顔で、ものを言うときの曖昧さのない、きっぱりした表現が実に小気味よいのでありました。それはそれとして。

 作文を書くように指示してすぐ、1人の男子生徒が机の下で漫画を読んでいるのを発見しました。おとなしい生徒で、通常の叱責(マンガを閉じて作文書きなさい)でしたが、何か彼の方にはひっかかるものがあったようです。そういうことは、よくあります。教師はいつもいつも同じ声で同じ調子で叱るわけじゃないし、生徒の精神状態も毎日変わります。同じ叱責が何かの拍子に全人格の否定に聞こえる、そういうことだってあります。

 男子生徒は、作文に没頭した(ふりをした)。しかしその内容は、叱責した女性教員に対する呪詛からはじまった。そして内容はエスカレートし、自分が凶器を使って彼女を殺害する「物語」へと発展した。短い作文(小説)の中で、教員は複数回死ぬ(殺される)ことになった。

 隣の席に座っていたのは別な男子だった。彼は問題の生徒の作文をのぞき込み、「すげぇこと書いてんじゃん」と、感想を述べた。

 ベルが鳴った。マンガを叱られた生徒は作文を出さなかった(出せるわけがない)。女性教員は「書いてたでしょう。出しなさい」と迫った。マンガ生徒はあくまで「書いてません」とシラを切った。

 不幸なことに、隣の席の生徒の視線がその作品が「ある」ことを示唆していた。女性教員は強制的にその作品を出させた。「途中でもいいから」と彼女は言ったが、その時点ではもちろん内容に見当などつくわけがない。

 彼女はその作品を他の生徒のものと一緒に職員室へ持ち帰り、もちろん点検に入った。

 すぐに、職員室中が騒然となった。作文に書かれていたのは凶器を使っての殺害行為のシミュレーションだったのだ。しかも被害者の絶命は複数回に及ぶ克明なものだった。会議が開かれ、物理的な実行行為をともなわないこの異常な作文をどう扱うか、私たちは何時間も、何日も話し合った。

 専門医のカウンセリングを受け、その専門医が「よし」というまで登校は差し止めです、と、職員会議の意を受けた校長は親に宣告した。両親は穏やかな、良識ある人だった。その「処分」を受け入れ、翌日から病院探しを始めた。私の記憶ではたしか、3つほどの専門医をハシゴしたと思う。

 

 何かのはずみに、私は遠い昔のこの事件と、生徒のことを思い出す。

 今は40歳近くになるはずの、彼の現在については類推するしかない。彼は卒業までずっと寡黙な生徒であり続けた。そのような事件を引き起こしたことでクラスメートは処分解除後も彼とは距離を置き、彼はずっと、有り体に言ってひとりぼっちの高校生活を送った。

 

 今、私は1つの仮説を立てている。

 極端に無口だった該当の生徒の中には、ひそかに女性教員への思慕があった。

 好きな漫画を叱責されたことで、一時的に怒りが彼の中に立ち上がった、それは当然だろう。慕わしく思っている女性からの叱責である。それをクラスメートも聞いてしまった。彼の中には激しい怒りが立ち上がるが、彼がその理由について知ることがない。

 どうして、他の先生に怒られたのより以上に、自分は怒っているのか?

 それが女性教員への思慕によるものだと、彼が自分で知ることはない。

 彼はその、わけのわからない怒りを、鎮める必要があった。どんな感情も補充されないなら「消費」されてゆく。彼も自分の「怒り」を消費する必要があった。友達に向かって「なんでぇ。むっかつくぅ」とか言えばたったの数回で消費されてしまうが、彼は何度も言うようにごくごく口数の少ない生徒だった。でも、怒りの消費は必要だった。

 そのために作文を書いた。

 今考えると、殺意などあったわけもない。しかしそれを文章にしたことで殺意が「あった」ことになった。皮肉にも怒りを緩和するために書かれた文章で彼が非行行為の当事者になった。怒りも何らかの衝動も実際行動に移されない限り(想像の域にとどまる限り)それは異常でも何でもない。空想を文章にすることで彼は自分の怒りの緩和のスピードを上げようとしたが、職員会議にとっては彼の創作は「行動」だった。

 

 佐世保の事件とはそもそも空想のエネルギーのレベルが違う、そんなことはわかっている。

 しかし破壊的・反社会的な想像が実行に移されないために、その「エネルギー」は何らかの手段で「消費」されないといけないのだ、ということは、教えないといけない。その「何らかの手段」を昨日のブログで私は「経験の想起」と言った。他にもある。文章化することで彼は通院と自宅謹慎を強制されたが、文章化「しない」ほうが数倍危険だったのかも知れないと、いまにして思う。

 繰り返すが仮説であります。

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