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2014年5月21日 (水)

村上春樹氏の労作「アンダーグラウンド」について考える

 村上春樹氏の労作「アンダーグラウンド」は、オウム真理教信徒による地下鉄サリン事件、その被害者ならびに被害者の家族に、村上氏がインタビューした、その記録であります。

 氏のインタビューに応じた人は60余名を数えましたが、その全員が、文字になったインタビュー記録を読んでそれが刊行されることに同意したわけではありません。同意が得られずやむを得ず廃棄された記録もあります。廃棄された言葉の中には貴重なものがずいぶん含まれていたはずですが私はそれを「想像」することしかできません。

 同意した人の発言については、氏のご苦労のおかげで、今、こうして読むことができます。

 刊行された深い緑の装丁の「アンダーグラウンド」を、私は何度も何度も読みました。どのインタビュイーの言葉も重い。いちばん真に迫り読む度に涙を禁じ得ないのは、あの殺人ガスを吸ったために今なお意識が清明でなく発語もうまくできない、一人の女性被害者の語りを読む時であります。

 車いすの傍らに立ち、優しく問いかける村上氏に、彼女は必死で返答します、「あぁうぅえぉ……」と、ほとんど母音ばかりの返答です。横に立つ彼女の兄が通訳します。「もう一度、ディズニーランドへ行きたいそうです」

 ここを読むのは、配偶者がそばに居ない時と決まっています。声を出して泣いてしまう時があるからです。

 書籍は、村上春樹氏は、読者に「泣け」と強制したりしません。誘導したりしません。ただインタビューの事実をたんたんと「記録」しただけです。それなのにひどく悲しい。同時に、優しい。書籍を閉じると、悲しみはオウム真理教教団に対する怒りに、そして「立派な化学者や医者、法律家まで居たのになんでこんな異常な事件が」という疑問に、かわります。

 事件から19年が経ちましたが、今なおこの事件の「解明」に、少なくとも私は接しません。なんて馬鹿な奴らだ、魂の救済のために人を殺すなんてそもそも荒唐無稽じゃないか、と叫ぶ人はいますが、それは「解明」からはもっとも遠い。「俺なら絶対に松本某などの説く狂った世界観に影響されたりしないぞ」という人も居ますが、実はそう言い切る人が最も危ない、ということにも、多くの人が気づいています。

 信徒の側のインタビュー集「アンダーグラウンド2」が、1年遅れで刊行されましたが、こちらについても私は複数回読みました。そして、「解明」は出来ないけれど少なくとも危機の一端についてならごくごく控えめに、仮説のようなものを立てることができる、と思うに至りました。

 「物語の欠如」です。

 人間社会で生活していると、この世が嘘にまみれていることを痛感します。投資用不動産の購入勧誘や「~を飲めば病気が良くなる」という怪しげな購入のお誘いはもちろん嘘ですが、そもそも、人間は口を開けば発する言葉の半分はすでに嘘です。結婚の申し込みも政治家の選挙中の絶叫もすべてが嘘です。勉強したら立派な人になれます、幸福な人生が送れます、という先生の言葉も大嘘です。私達はそれらが虚妄であることを知っているし、咎め立てもしません。しかし、世界中の「多くの」人の幸福のために「多くの」人を殺さないといけない、というのはその言葉自体が嘘という以前に荒唐無稽です。言葉としてつながっていないと言って良い。言葉が正常な機能を逸脱していると言って良い。しかし松本は教祖であり今なおその人の言うことは正しいのだ、と信じている人がいる。教祖が荒唐無稽であるということは世界観も荒唐無稽であるということで、その究極の実現の姿である「シャンバラ計画」だって荒唐無稽に決まっている。

 しかし。

 死んだ人がシャンバラ計画の中にある病院の中でなら生者として復活するなんて荒唐無稽でどうして現役の外科医がそんなのに影響されるのだ、と天を仰ぐ私の中に、すでに、「判断停止」が忍び込んでいる。

 ……に決まっているじゃないか、という私の「判断停止」は、現役の優れた執刀医でありながら地下鉄サリン事件に重大な関与をした者の「判断停止」(=松本という一つの価値観への絶対帰依)と、どこかは違うが、どこかは、実は同じだ。

 それに気づく時、私の心臓ははっきりと、わななき始める。

 私達の中に、安全な人など、いないのだ。

 自分の人生を、そして他人の人生を危険に導く大小様々な嘘に接した時、その嘘を見抜き安全な人生へと回帰するためにはその嘘に対抗するこちらも大小様々な「物語」が必要だ。嘘はかならず、物語の形を取っている。この壺を買うと一家が幸福になります、なぜならこの壺にはある種の気が満ち満ちていて、という物語だ。財産は金地金に換えておくべきです、そうしないと全世界を覆うデフォルトの波にやられます、アメリカがQE3をやめた瞬間に世界経済はこうなりますああなります、という物語だ。その嘘が許容されているから成り立っている商売が、職業が、世界には無数にある。嘘の中には微笑ましい、かわいらしいものもあるし、それこそ人を殺すものもある。嘘の物語に対抗するには、その嘘に対抗する物語がこっちにも必要だが、「アンダーグラウンド2」を読むと信徒、もと信徒というのは要するに生まれてこの方「実利」「実用」には応分の意識の働かせ方を習得してきたが、「物語」には接しなかった人々ではないかという気がする。

 私が小さい頃、「お爺さんが山へ行くと竹の中に小さな女の子がいました」と、母は語った。

 そんなことありえない、竹の筒の中に入る女の赤ちゃんなんかいない、入ったら数分後に窒息してしまうはずだ、と私達は思うが、そういう「物語」があるのだな、と思って受け入れる。無数の物語を許容することによって私達は脳の襞をフレキシブルにする。だから大きくなって「壺が……」と言われても、「はいはいそれって1つの物語ね」ということができる。嘘だと思うから人生の不幸はそれほどシリアスにはならない。しかし、心に物語のない人は違う。眼前の言葉を、嘘を、物語でフレーミングするという訓練がないから、現実の経験と知識でそれを計量するという極めて危険な対応をしてしまう。それは、本当に危険だ。明らかな「嘘」の「物語」で迫る人間の言葉に、現実の経験と現実の知識は時として(いや、ほとんど)刃向かえない。

 それをやろうとして失敗した(当たり前だ)のがオウム信徒ではないか、と思う。

 子どもが生まれたら、耳元で、母の、父の、その口で、声で、「物語」を語ってあげたい。それは情緒とか情操とかいう高級だが曖昧なもののためではない。嘘にまみれる社会で生きるための自衛であり武装のためだ。

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