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2014年5月 4日 (日)

画廊から帰って考えること

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 画廊から帰ってきて、あの絵はもし買ったらどこに飾るのかしら、部屋がどういう風に変わるかしら、ということを話し合うのであります。

 私は、一枚の絵を飾ると、居間であれ玄関であれトイレであれ寝室であれ雰囲気が「激変」することを知っております。長く住んでいた京都の家には、北陸地方の冬の空気感を見事に描いた、海と係留された漁船、という風景画が掛けられていましたが、居間全体が寒々とした、明るい声で対話のしづらい雰囲気でありました。たまりかねて撤去した父がその絵をどうしたか(けっこうな、力と名前のある画家だったが)知りません。たぶん誰かにあげたのでありましょう。うっかり銀行の、融資相談室にでもかけたなら、すべての融資が不調に終わったのではないでしょうか。絵の力とはそれほど強いのであります。もちろん、その絵が支配するのにふさわしい空間、というのは、あります。今ちょっと思いつきませんけど。

 絵を飾るというのは、実は冒険であります。中央大街のちょっと横丁にはいったところに、有名なロシア料理店があるのですけど、他の色んな美術品に混じって浮世絵があります。もちろん、料理店の雰囲気に、味に、影響します。店主がそれを計算に入れ、展示していることはもちろんです。どういう意図か測りかねるのは私の不見識によるもので、店主の側には正当な理由が、ちゃんとあります。

 土曜日の画廊訪問はとても刺激的でありました。もとより私や奥さんの計画でありますから、絵を誰かにプレゼントしようとか日本で売ってもうけようとか、そういう意図なんかないのであります。あくまで、自分達の住む家屋の装飾であります。

 さて、その上で、考えるのであります。

 絵を飾るということの意味、どのような絵を飾るのか、というセンスであります。

 北海道滝川市・西町にあります某開業医さんの診察待合室には、モネの睡蓮がかかっています。それを観ているうちに、だんだんと落ち着いた気持ちになるのです。胃の痛みが次第に緩和されてゆく。

 私の家には、外壁に三匹の亀の絵が描いてあります。家全体が、なんとなくふざけた、真面目に生きようとは思わない者の集合地に見えます。

 しかし私は、ご飯を食べお茶を飲みお客と近況について語らう居間には、それに見合う絵を掲げたいと思う。生命力に溢れた花とか、落ち着いたたたずまいを見せる、質感のすばらしい湖とか、力強く疾走する野生馬とか、そういう絵を飾りたいと思う。

 古来、様々な絵がプロにより、描かれました。

 描いた人は、観る人の感情の好転を祈ってそうしたのだし、それを確信していたのであります。資料として隠蔵されることを前提に描いたものもあったかもしれないが、ほとんどの絵はそうじゃないだろう。日常的にそこにあり、観るのだ。

 そうすると?

 何人もの画家が手がけた、「ホロフェルネスの首を切るユーディト」。

 ダリの、「アメリカの歌」。

 ゴヤあるいはルーベンスの「我が子を食らうサトゥルヌス」。

 作者を忘れたけど、「かささぎと絞首台」。ブリューゲルだったかな?

 いわゆる『怖い絵』は、誰がどういう意図の元に描かせ、どういう効果を狙って掲げたのだろう。ドガの「踊り子」や「エトランゼ」だって、観ようによっては怖い。

 怖い絵は、本当に多い。

 飲食店に飾ると、客は来ない。

 居間に飾ると友達を失う。

 寝室に飾ると、悪夢にうなされる。

 それでも、名画に違いない。

 昨日の画廊にも、そういう絵が、複数点ありました。

 考えても、わからないのであります。でも、ある種の人のある種の生の瞬間には、有用だった、それもなんとなく、分かる気がするので、あります。

 それが何か、わからない。知ることにそれなりに意味あると思うけど、わからない。

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