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2014年5月31日 (土)

片道944キロの満州里(内蒙古)の旅からなぜだか生還

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 内モンゴル自治区への旅から、なぜだか生還して参りました。

 行きも帰りも鉄道で、乗車時から1人、という経験はもしかしたらこれが初めて。今までは乗車時に誰かのアテンドがあったとか、先方で生徒が待っててくれるとか。

 夜20:46ハルピン発の寝台列車はもちろん満席。私は3段の真ん中。窮屈ですけど、これでも手足が伸ばせるだけ、まだ硬座よりまし。944キロ先の満州里まで、219元。いつもながら思うのは、中国の乗客はどうして絶対に食べられないと分かっていて、大量の食品(パンやお菓子、方便面…つまりカップ麺ね…)を持ち込むのかということです。満州里到着は翌朝9:50なので、せいぜい1回しか食事機会がない。

 人によっては、「何人分?」と聞きたくなるほど大量の食材を持ち込みます。私は水とプレーンの棒状のパン、以上。中国人の愛する「面条…油で揚げたねじりん棒状のパン…」はおいしいし牛乳に良く合うのだけど、今回は万が一のことが(油の不良による体調不良とか)があるのでパス。旅行中の携帯食はシンプルであればシンプルであるほどよろしい。黒河からの帰りは、ひたすらキュウリをかじって11時間を過ごしました。

 自分でも驚いたのだけど、中国語が通じるようになっておりました。1人だから必死になるのだ。

 寝台車の中で私と同年配のおじさん。「ここでいいのかな?」

 私は彼氏の乗車券をのぞき込み、「是啊。这是您的硬卧。(そう。ここがあなたの寝床)」

 乗車券は寝ている間中、車掌さんの預かりとなるのですが(預かり証をくれる)、内モンゴルに入り車掌さんに「交換我的票。(乗車券ちょうだい。)」など、かなり通じました。もっとも車掌さんから「あんたは満州里だろ、乗車券返却はもっと先」と断られたけど。

 ハイラルを過ぎ、ある程度の寝台車の乗客がいなくなる頃、硬座のほうから若者がやってきました。あと3時間でもいいから寝ようというわけでしょう。私に「有没有没有人的硬卧?(ここらで人のいないベッドあるかな)」なぜだか言いたいことが分かるのだけど、それって状況なのかな。

 私「有。我的上面。」若者は、「謝謝」といいながら最上段へ這い上がってゆきました。

 目的地、満州里。

 驚くべき事に、私の真下のおじさんが、非常に綺麗にシーツを延ばし、上掛けを丁寧に畳んでその上に枕を置き、下車準備を整えました。

 慌てて私も同じようにしました。おじさんのように上手には畳めませんでしたけど。見ると、かなりの乗客が同じように寝具を整えた後、列車から降りてゆきます。車掌さんへの敬意でしょう。

 満州里。

 いつものことですけど、客引きタクシーがうるさい。断っても断っても進行方向に立ちふさがって「乗れ。」徹底的に無視を貫くつもりだったけど、根負け。ついに交渉を始めてしまいました。満州里駅周辺の散歩が目的だったのですけど(駅の周辺以外は本当に寂しい、辺境の町)ただ1カ所、ロシアとの国境は訪問して写真を撮りたかったのです。そこまではだいたい5キロと聞いていたから、歩いての往復は無理(まぁできないことはないけど)。

 ついに、国境施設往復100元で乗車してしまいました。こういう日本人の態度が現地でのタクシー料金のインフレを招いているのかも知れない。海より深く反省しながら(たぶん正規料金はその半額ほど)乗車。

 走りながら、運転手さんが「これがロシアの記念館。これがロシア物産館。買い物はしないのか?」と聞いてくれます。私はマトリョーシカ人形にもロシア名物双眼鏡にも興味ありません。だいたい、巨大なマトリョーシカを空気で膨らませ、それをゆらゆらさせて客を引くって悪趣味は何なの? マトリョーシカ人形って女性の「子宮」から発想を得て作られた人形でしょう。子宮に空気を入れて空高く揺らしてどうすんだよ。

 それだけではなく、私はだいたいにおいてテーマパークと名のつくものが嫌いです。北海道にもやたらとあるけど、そういう所を訪問しないと旅した気分にならないという人間が悪いのかテーマパークを林立させる商売人の方が悪いのか。(どっちもだ)

 それはそれとして。

 国境のゲートには、朱筆たくましく「中華人民共和国」。なぜかまったく意味分からないのだけど、スホーイだかミグだかの古くさい戦闘機が展示されてありました。もう1つ、「解放号」というプレートを着けられた明らかに満鉄時代のものと思われる古色蒼然としたSL。中国人は何しろ「解放」という2文字が好きだ。このSLにその命名を行ったということは旧日本軍からの解放を果たしたその象徴がこの満鉄の資産のぶんどりだったということだろうか。

 ハルピンから満州里(終点)まで延びてきたこの線路は、ごく古くは東清鉄道と呼ばれていた。ロシアと中国と日本とモンゴルの間で、かなりせわしない権益のやりとりがあり今はもちろん中華人民共和国の財産。それにしても国境の町の、国境そのものの、観光客向けに展示するSLに「解放号」。

 歴史を忘れないぞ、という気概は分かる。しかし私なら嫌になる。今なおその2文字に固執するということは今もそれが果たされていない悲願だということだ。軍隊が人民解放軍、医療機関が解放病院、道路が解放街。私なら嫌になる。果たした目標は次へとステップアップする。今なお解放が完了していないというそれがこの2文字に中国の人が異様に固執する理由だろう。昭和30年代当時私の父の、母の、悲願は「子どもに腹一杯ご飯を食べさせること」だった。じっさいそれが限りなく遠いしかも切実な目標だったんだから。それから60年後、私が年頭の所感に子ども達の前で「満腹」と書くか? 書かないだろう。恥ずかしくて書けない。冗談でも書けない。

 「解放」はいまだ途上だということだ。それを阻んでいるのは何か? まさか日本じゃないだろう。

 それでもまぁ1枚、2枚は写真も撮り、運転手さんも撮り、駅に戻り、100元を払って別れました。

 つづく。

 写真は、上が満州里駅。ごらんの通り観光客もほとんど来ない寂しさ。下が、私がいらないツッコミを入れた解放号。トップの所には「満州里行」というプレートがありますが、運転席横には「解放号」とあります。SLの横に立つ、猿の惑星に服を着せたようなしょぼい日本人が誰か知りません。

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