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2014年2月 5日 (水)

日本を、父を、誇りに思うために私が考えること~海南島あと4日

 どんな民族にも国家にも、誇るべき輝かしい歴史があり深く静かに反省し謝罪しなければいけない歴史があります。その両方を認識し、勉強することが、私自身がこの国に誇りを持つための正当な筋道だと思います。

 300万同胞が命を失い、人類史上決して許されないはずの原子爆弾まで2つ落とされ、国中を焼け野原にされながら私たちの父の世代の人々は全世界が驚嘆するスピードで復興を果たしました。あのゴルバチョフが1986年レイキャビクで「20世紀最も成功した国家は日本である」と言ったことを私は忘れない。私は父と母を、その世代の人々を誇りに思っています。

 そしてその父は、1940年代に従軍した経験を持つ。中国大陸にいたことは息子に語ったが、かの地で何をしたか、何が起こったのか、ついに死ぬまで語りませんでした。その肘にはくっきりと盲貫銃創のあとがのこっていたが、子どもだった私の問いに対してもどういう戦闘で生じた怪我なのか絶対に語らなかった。産軍したのが石川県の部隊である事は知っているが、広い中国大陸のどこで、どんな階級で、何をしたのかは知らない。彼は1980年に死ぬまで、そのことを誰にも語らなかったのであります。

 私は海南島で、日本軍の蛮行の記憶について土地の賢者から途切れ途切れに聞くのでありますが、ふと、怖くなる瞬間というのがあります。この島に石川県の部隊が来た記録はないはずだから、その蛮行を父がしたということはないだろう。しかし日中戦争は長く続いたのであり、広大な中国のどこかには父はいたのだから、少なくとも無関係であったということはできない。父は天皇の兵士として天皇から授与された銃を持ち天皇の命を帯びて中国へ乗り込んだ。その腕に夏の間は嫌でも目が行ってしまう盲貫銃創のあとがあるということは、そこを中国の兵士が撃った弾が通ったという事であり、父もまた銃弾を放ったということであります。

 「私たちは戦争をしていたのだ」と言った人がいる。憂国の女性論客である。戦争を背景に様々なことは起こり得るのだ、平時とは違うのだ、と女史は言いたいのかもしれない。私は、「それがどうした」と思う。戦争であれなんであれかけがえのない父は肘に激烈な傷をおって帰国し彼を愛し誇りに思う私にとってそれは「戦争をしていたのだ」から諦め忘れられるものでない。同様に、父の放ったかもしれない銃弾が何かに命中したとして、その被害を負った側が「戦争だから」と全て許すとも考えがたい。

 今なお、南京大虐殺があったのかなかったのか、という論議があるそうであります。物理的に~万人もの人間を殺せるわけがないだろう、という論があるそうです。よくわからない。身近な人間をなくした人間にとってはそれがたった1人でも全世界の消滅と同じ悲しみであるはずであります。

 南京で、ハルピンの南側郊外で、何が起こったのか、その責任の量が殺人の数で決まるのかどうか、私には疑問がある。まず、いちばん愛しているのは、守らないといけないのは直近の1人のはずだ。180万でも1人でも怒りの量に違いがあるわけがない。以前あるところでこういう話をしたら、私のことを小児病患者だと言った人がいた。小児病でかまわない。鈍感な大人になるより自分の感性を持つ子どもであるほうがはるかに納得できる。

 現在私が居る海南島には日本軍人の蛮行を記憶にとどめる人が存命している。万寧で、九曲で、怒りと悲しみを生み出す事件が起こったわけだが、その数はある地区では251人だったりそれ以下だったりする。南京「大」虐殺とは数値が違う。しかし怒りと悲しみは等価だ。「あったかなかったか」という論議は私には本当に聞きにくい。そして。父は撃ち、父は撃たれた。戦闘員だったので、百歩譲ってその行為が「戦争をしていた」から有り得たのだと納得したと、する。それは自動的に、戦闘員でない人を亡くした人の怒りや悲しみにはちゃんと想像力を働かせる、ということでないといけないはずだ。

 海南島の被害者の記録には、「一屍二命」という文字が見える。つまり、妊婦だったという事だ。海南島で出会った全ての人の優しさを思い父のことを思い私は絶句する。ともどもを愛し尊敬するという事は、やっぱり謝罪と反省の気持ちをちゃんと持つ、ということでないといけない。そう、私は考える。

 日本を誇るから私は今反省するのだ、と、そう思う。

 私だけがおかしいのだろうか。戦争をしてたのだからしようがないだろう、70年たったことだろう、と考えると私の中から日本に対する、父に対する、誇りが消えてゆく。ちゃんと謝罪の気持ちを持たないと、誇りは維持できないような気がする。

 そうして、そういう感情を持って初めて、194531日の東京大空襲や8月の2つの原子爆弾や武装解除の準備完了後のソビエト参戦それに続くシベリア抑留について、自分自身の感想を持つに至る、と思うのであります。

Photo

 この島に滞在するのもあと4日であります。配偶者と散歩していると、後ろからバイクで追い抜いていく若者が、見ず知らずなのに「こんにちはぁ」と言います。この島に滞在した日本人の中には、ボランティアで小学校に出かけ日本語を教えた人がいる。それで覚えた日本語でしょう、と、聞きました。

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