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2014年1月25日 (土)

村の賢人から、終戦後帰国しなかった日本人の話を聞く

 海南島に来て、12日目であります。

 夫婦で3食付き1300元の、チョンハイ孔子学園留学生宿舎に寝泊りしております。

 海南島そのものはリゾート地ですけど、ここ仙窟村は純然たる農村、トイレットペーパーなど最低限の日用品を置いている商店まで歩いて30分、郵便局や銀行のある地区の中心地まで行こうとすると1時間強、という土地であります。もちろんそこまでの移動手段は歩くか、電話で三輪タクシーを呼ぶか、であります。

 12時間から3時間、中国語の授業を受けております。この授業はけっこうハードなのであります。予習、復習が欠かせません。そして情けないことに私の脳袋は深海のアメフラシ並みにスカスカ、校長先生から3回復唱を指示されてその通りにして「覚えた」と思った句が、表でニワトリが「オッカダセンセーイ」と叫んだ瞬間に頭から消えるのであります。

 そんなわけで。

 何より楽しいことは、土地の人との会話であります。ただ、23103人の村の人々はほとんどが高齢者でありますから、「お年寄りの話を聞く」ということになるのであります。

 最高齢者が101歳、次が91歳、87歳、85歳……。

 第2次世界大戦終結当時、10代の後半だった、という人にとって、その日とは、つまり「昨日」なのではないかと想像するのであります。

 旧日本兵や日本の民間人は、海南島へ来るに当たってすべて、台湾を経由している。台湾から船で南下したのであります。終戦と同時にほとんどの人は島から去ったが、120名の人は島にそのまま留まることになった。日本へ「帰れなかった」人もいたでしょうし、もしかしたら自分の意思で「帰らなかった」人もいたかもしれない。

 残留者の中に、海口市の郵便局長をある時期、つとめた人がいた。局長はこの地の華僑とともに暮らした人。しかし敗戦国の側の日本人だったのだから、終戦と同時に中国の(当時は中華人民共和国という名前ではないが)政府に拘束されることになった。しかし海口市の、彼を知る住民は、「この人は悪い人ではない」と運動し、元局長は辛い目にあうことなく、釈放されることになった。

 日本へ帰らず、残留した120名の1人である。

 彼は海口市になじみ、暮らすことになった。1949年の中華人民共和国建国をその目で見た。その暮らしがどのようなものであったか想像することはできないしどうして帰国しなかったか更にわからない。

 もちろん、もう郵便局長でない。収入は、暮らしは、どうだったのか、それも想像できない。とにかく終戦から20年、元局長は海口で暮らした。

 1960年代の後半、共和国建国を天安門広場で宣言したあの偉人が、文化……命を起こす。その波は当然、元局長を直撃することになった。

 「日本へ帰ったほうが良くないですか」という、土地の人のアドバイスを受けて元局長は東京の自宅に帰る。しかし、20年以上の不在を経た日本は、居心地のいい「祖国」ではもはやなかった。元局長は紅の兵士がなお跋扈する中国へ、海南島へ、戻る。結局そのまま海口で、死ぬ。

 私にその話を聞かせてくれた村の賢人は、語る。

 「私が、終戦後も残留した120人の日本人を調べ、記録しようと思ったのは1988年だった。その時にはもう残留者は38人に減っていた。しかし私は、残留者の中には海南島の暮らしを記録し、日本で出版した人がいることを知っている。国会図書館か防衛庁か、しかるべきところへ行けばその記録を閲覧することが出来るはずだ。」

 「帰国したら私が調べてみます」と、約束しました。

 忘れてはいけない何かを持つ人にとって、69年前とは、つまり「昨日」なのであります。

 あ、本日の記事、つけたし。

 海南島は、1月でも半そでで過ごせる土地。南西の三亜では水泳ができる。夜にはカエルが鳴くしチョウチョも飛ぶ。でも、なぜか蚊に、ほとんど食われない。食物連鎖が自然に機能しているという事でありましょう。

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