« 世界の人がみな幸福にならないうちは私も幸福ではない、と宮沢賢治は言ったが…… | トップページ | 人はどうして誰かを、何かを評論する時、気持ちいいのか »

2014年1月 5日 (日)

我が黒龍江東方学院には勤務評定がある? で私は?

 我が黒龍江東方学院には、「勤務評定」が存在します。大学上層部は「ない」というかもしれないですが、確実に存在します。

 評定を行うのは、生徒です。

 私たち日本人外教が詰める六階の職員室(そういう名前ではないが)の一つ置いて隣に、補導員という、授業を行わない教員の詰め所があります。そこに、ひんぱんに生徒の代表者が出入りしています。基本的には班長という名前の学級代表ですが、もちろん学習委員長(班長と同じく、学年開始時に生徒が立候補→プレゼンテーション→投票で決まる)も出入りします。

 私の推測では、班長・学習委員長は、なに先生の授業はどんなふうか、自分達はどんな風に改善して欲しいか、そういうことを「補導員」に話しに来ているのではないか、ということになります。というか、あるクラスのある教科のある先生の授業の問題点を明らかにするために、補導員が班長を呼びつけている。

 そういう下地があって、私たち日本人教員が折に触れいろんな要請を教務サイドから受ける、そのタイミングと内容に、合点がいきます。

 もちろん、その聞き取りの様子を目撃したわけでもありませんし、班長や学習委員長から話を聞いたわけでもありません。そして、私がそういう学院側の授業状況把握を(仮説ですが)迷惑だと思っているわけでもありません。むしろ、当然だと思っている。たとえ4500元でも(わはは、日本の高校の教員の6分の1だ。私はある日タクシーの運転手にこの金額を打ち明け、「そんな小額でよく授業できるネェ」と大笑いされた経験がある)大学側は立派な「対価」を払っているのだから、効果的にその金が使われているかどうかの調査は当然だ。そして、そういうことがあると思っていることは一方で教員の立派な励みの材料になる。

 さて。

 去年2月から6月にかけて私が担当した「近代文学選読」ですが、私は一応、「好意的・効果的に受け入れられているはず」と、思っておりました。生徒はよく取り組んだし、よく発言したし、テストの結果も悪くはなかった。出席状況のよくない男子が50名ほどの受講者の中に34名いて、考査前に呼びつけての特訓は必要だったけど、日々の授業は楽しいものでありました。

 それだけに、12月、中国人の教務担当の先生から「来年は日本文学選読の授業は中国人教師が担当します」と言われたときは、相当なショックでありました。

 「お前のやった1クール(17回の授業)はダメだった」と言われているのと、同じだ。

 12月、私は当然来年も(つまり今年、2014年、3月~6月末までということだが)それを担当するつもりで準備をしていたので、「日本人にはやらせない」と言われた時は天を仰いで「なぜ!」と叫んだものでありました。

 日本の「近代文学」の「選読」で、しかも17回で終わってしまうから、中国人相手に何をするか、真剣に考えたものであります。夏目からはじまって芥川、宮沢、川端、もちろん太宰、ちょっととんで大江から三島、二人の「村上」姓の作家で終わるまで、人生そのものが行き当たりバッタリである私にしては例外的に入念に組み立てを行い最初の授業が始まるときには最後の授業の教材までできているという、日本の高校では絶対にしなかった早手回しなプリント作成で、臨んだのでありました。そもそも私は、日本の高校では、朝825分になり職員室を出るときには授業の計画なんか何もなく、階段を昇りながら授業の計画を練るか、あるいは入室後出席を取りながら授業内容を決めるか、ひどい時には黒板をむいてチョークを黒板にくっつけてから、その日何を授業するか、決める、というあんばいだったのだから。

 「生まれ附いての無鉄砲で子供の時から損ばかりしてゐる」「山道を登りながら斯う考へた」それぞれの書き出しからどこまでも主語「俺は」「私は」を使わなかった夏目が、「吾輩は猫である。名前は未だ無い。」の時はどうしていきなり主語を登場させたのか、そこから始まり、日本という国のターニングポイントで登場した作家と作品(言うまでもなく村上龍、『寂しい国の殺人』)で6月最後の授業を締めくくるまでをまた1クールやりたくて、当初1年の中国滞在予定をもう1年延長させたと言って過言……そりゃまぁ「過言」だ。海より深く反省。

 その授業を、日本人には担当させない、中国人でやる、という。

 瞬時に私が考えたのは、補導員のヒアリングに応じた2つのクラスの2名の班長、あるいは4名の、班長+学習委員はどのように授業の様子を報告したのか、ということであります。それを考えてる時の私の顔は、あの名作ドラマに出てくる東京中央銀行の融資部次長の顔にそっくりだったに違いない。

 生徒は、なんと?

 「あぁ中外教の授業スか、やばいスよ、さっぱりわけわかんねぇスよ」とでも、言ったのだろうか。

 試験問題は、中国人の教務担当者が微に入り細に渡り点検するが、問題のあるような試験内容ではなかった、そこには自信がある。まぁ、メキシコ湾流の向こうの巨大カジキ、天城峠箱根峠という2つの峠の向こうの踊子、国境の長いトンネルの向こうの駒子、そして奇怪なトンネルの向こうの、人間が豚に変わってしまう異世界(アニメ、「千と千尋の神隠し」)を比較対比させた試験問題は、それ自体が文学的過ぎたかもしれんが……それにしても、ちゃんと授業をして、試験しているわけですからネェ。

 うううう~む、何がいけなくての勤務評定結果不調なのだ。

 ここにきて、「選んだ作家に問題はなかったですか?」という「指摘」が。

 どういうこと?

 「最後の授業、ずいぶん熱を入れて授業しましたよねぇ。」

 ええ、熱を入れて授業しましたよぅ。だって……。

 「結局、麻薬と暴力とセックスの作家ですからネェ」

 あっ・・・・。

« 世界の人がみな幸福にならないうちは私も幸福ではない、と宮沢賢治は言ったが…… | トップページ | 人はどうして誰かを、何かを評論する時、気持ちいいのか »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/589238/58888813

この記事へのトラックバック一覧です: 我が黒龍江東方学院には勤務評定がある? で私は?:

« 世界の人がみな幸福にならないうちは私も幸福ではない、と宮沢賢治は言ったが…… | トップページ | 人はどうして誰かを、何かを評論する時、気持ちいいのか »