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2014年1月28日 (火)

芥川賞どこへ行く

 芥川賞の掲載された「文芸春秋」を、欠かさず読んでいたのは数年前まで。

 最後に読んだのは「abさんご」でしたか? もう読まなくなりました。理由はものすごく単純で、おもしろくないからです。「蹴りたい背中」や「蛇にピアス」などからは、作者の、「この小説を書くことによってこの世界の何かを変えたい」という欲望を感じることが出来ました。共感と申し上げてもよろしいかと思います。それが、以降の作品からはなかなか感じることが出来ません。はるかな昔、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」には、この世界の秩序を変えたいとかどうとかそういう衝動を突き抜けて、とにかく大変な破壊力を感じたのでありますが、ここ10数年、さっぱりそのような芥川賞作品にお目にかからないのであります。

 「きことわ」は随分きれいな文章でしたが、その流麗さの文体に接して気持ちよくなりそれが彼女の目指すものなら良いのですが、他の作品はどうなのかと思ってもあの作品以降に爆発力のある作品が「ない」のですからわからない。

 苦労しました、がんばりました、秀作を重ねました、とにかく努力しました、という作品は嫌です。そもそも、ブンガクなんて努力してするもんじゃない。「時が滲む朝」は作者の誠実な努力を感じるのですけど、苦労に共感するのが好きなら私は小説なんか放り出して春夏の高校野球を見る。村上龍は苦労してあの「69」なんか書かなかったし、村上春樹だって、「風の歌を聴け」や「蛍」から、いかなる苦労も感じさせない。それがプロというもんだろう。

 私はもと国語教師としてはとんでもない人間で、大恩人であるはずの小林秀雄や亀井勝一郎にも、不信感を持っている。理由は彼らが苦労して、努力して文士であったからだ。小林はある時、若い小説家から「評論というのは結局のところ評論する『小説』がないとできないでしょう」と言われ、激怒したそうだ。そのときの言葉が面白い。「てめぇらみたいな三文文士たぁ、覚悟が違うんだ!」

 それって、列席者を爆笑させるための、お正月番組の余興かと思う。「覚悟が違うんだ!」

 あんたが書いているのは所詮は文章だろう、この世に無くてもいいものだろう、一部の知識人しか、モーツァルトにも無情にも意味はないだろう。覚悟してやるようなことかどうかたったの3秒考えればわかる。

 あれ? 芥川賞を批判しているのか小林秀雄を批判しているのかわからなくなってきた。

 いずれにしても、文筆業務なんか努力や覚悟をもって臨んじゃいけない。

 努力してません、小説でも書こうと思って原稿用紙を買ってきて5日で書きました、と言って、村上龍は「限りなく……」を発表した。村上春樹は、神宮球場で外人選手(名前を忘れた)の三塁線の当たりを見て、ふと小説を書こうと思った。「風の歌を聴け」はその日の夜に生まれた。

 そうやって書かれた作品だけだ、人を感動させるのは。

 時代が小説を求めていないという意見があったが絶対に違うと思う。今の日本の人間(特に若者)は、恐るべき閉塞の中にいると私は思っている。閉塞しているから、ただテレビを消せば済むことなのに子どもを扱ったドラマがああだこうだと言うのだ。その閉塞は、1つの仮説で可視化できる。その仮説とは、「あなたを閉塞させる共同体はもう日本の国から消滅した」というものだ。

 それは、評論じゃできない。テレビのドラマ(『ハケンの品格』ね)、あるいは小説がふさわしいと思う

 誰も書かないなら私が書いちゃうぞ。なにぶん、「努力しない」のがとりえの人なんだから。

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コメント

いつも、楽しく拝見させていただいてます。
最近、『風の歌を聴け』を読んだので少しコメントしてみようと思いました。
私には中々理解できなくあと二周、読んでみようと思っています。
ビールを飲むシーンがおしゃれだと思いました!
結局何のコメントにもなりませんでした。。。

これからも更新を心より楽しみにしています!

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