« なんのこととはない、ずっと仙窟村にいればよいのだ | トップページ | 芥川賞どこへ行く »

2014年1月27日 (月)

海南島2週間……次第に混乱する私

 よくよく知っている中国の大学生から、メールを貰いました。

 日本語を習い始めて4年になる彼女は大変に勉強熱心で性格がほがらか、面倒見がよくて(中国の大学生は1人残らず親切です)それでいて人情家でもある、悩むべき問題にはきちんと向きあって答えが出るまで悩み続ける、誠実さを持っています。

 「ブログを見て驚きました。ふだんしゃべっているのと違って、とんでもなく難しいことを書いていますね」と、彼女は書いてきたのです。

 たぶん、日中関係をどう考えるか、日本の将来はどうなるのか、どうすべきなのか、そういうことを書いた時に文章が難解になる、そういうことを彼女は言いたいのでした。

 私は彼女と面と向かってしゃべる時にはほとんど世俗的なことしか言わなかったので(鉄道の切符はどう買うかとか、バスと鉄道の旅行は心得においてどう違うかとか)七面倒くさいことを書いてるブログを見てほとんど二重人格者のように見えたのかもしれない。

 まぁ、二重人格者ですが。(三重人格? 四重……)

 日本への留学をまぢかに控え、人々との交流について悩む彼女に、1人の友人が、アドバイスしたそうです。

 「普通につきあえばいいんだよ、国と国とは問題があるかもしれないけど、11人は普通に交流を求めているんだから」

 ……それについてどう思いますか? と彼女は書いてきました。私は、難しい問題だと思いました。このアドバイスをしたのが日本人なのか中国人なのかで、全く意味は変わってきます。

 私は自分の考えを述べました。

 このブログの閲覧者は少ないとは言いながら日によっては800人を越えます。それでも私はあえて書くのですけど、歴史のある時期、日本は、つまり日本人は、明確に「加害者」でありました。

 私はこの海南島に残る「千人窟」の伝説は、事実であろうと思っています。実に海南島の複数の地に、日本軍人の蛮行のあとが語り継がれているからです。何度も書きますが、日中戦争終了後69年、消えてはいけない記憶を持つものにとっては69年というのは「昨日」です。

 海南島のある古老の、「戦争が終わって日本人がこの島からいなくなったとき、とても残念だった。いつか大きくなったら自分で日本人を殺してやろうと思っていたのだから」という言葉も、私は活字で読みましたがおそらくは捏造ではなく実際に語られたことなのではないでしょうか。そしてそれは父母を目の前で惨殺された幼かった彼女の、心中深く刻まれた人生の理由ではなかったのでしょうか。

 私が、1人の日本人として、「それは国と国との問題であって私たちが個人は友好的に会話ができるはずだ」とついつい思い、また言う時、あるいはその言葉を前提とした態度でふるまう時、どうしてもそこに、何かしらの甘えのようなものを自覚しないではいられないのであります。

 確かに、蛮行をふるったのは「天皇の軍隊」であって、私ではありません。

 そして、69年が経ちました。

 同時に私は1人の愛国者でも、あります。当たり前だ、日本のことを好きになれないで、中国のことを好きになれるわけがないじゃないか。1人の愛国者として、私は自分の娘や息子に、誇りを抱いて他国の人と接して欲しい、卑屈になるのは絶対に良くない、とも思っています。

 それでも、私たちは決してしてはいけない蛮行を働いた人間達の、子孫です。その「集団の記憶」には、責任を自覚しないといけない。責任を「とる」ことはできない。賠償を個人資産でするとか個人の資格で特定の村に慰霊碑を建てるとかそういうことはできない。できることはものすごく限られていて、しかもそのできることには実質的な意味がない。

 それでも、私は自分がこれ以上傲慢にならないように「知り、記憶する」義務がある。

Photo

 写真は、仙窟村で開かれたあるパーティーで。

 私は、「日本人である」と打ち明けました。もちろん皆さんフレンドリーに接してくれました。ニコニコ笑ってご飯を、料理をよそってくれた。旧日本軍の蛮行の記憶を持つ101歳のお年寄りが存命するこの村で、でもそれはもしかしたら私たち夫婦がみんなに、この村一番の名士の友人であると認識されている、それが理由だったのではないか。

 日に、日に、その思いは強くなります。日中関係をどうするかじゃない、自分が、日本を愛ししかも中国も愛するためにどうするべきなのか、個人としてどうできるのか。

 甘えない。いや、でももう甘えている。

 69年のかなたの記憶だと、忘れたふりをする。いや、それは甘えるよりもっと悪い。

 自分は天皇の兵士の子孫ではない、責任など取れない、と開き直るか。とすれば私の、祖国への愛着に矛盾する。

 1970年代、京都出身の歌手は私たちのことを、「戦争を知らない子ども達」と歌った。私も歌った。そしていつしか、「戦争を知らないオジンたち」になったことを喜んだ。実は間違いだったかもしれない。杉田二郎は自覚しただろうか。実は私たちは、「戦争を知らない子ども達」ではなかった。これから「知る」ことを義務付けられた者達だったのだ。それは、何の役にもたたない。ただ、傲慢な、これ以上傲慢な日本人になることを避けるためには必要だった。

 ……だからメールの彼女には、「1人の個人として戦争のことを知らないように、振る舞うことは出来ないと思います」と、書きました。それだけ、書きました。

« なんのこととはない、ずっと仙窟村にいればよいのだ | トップページ | 芥川賞どこへ行く »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/589238/59019865

この記事へのトラックバック一覧です: 海南島2週間……次第に混乱する私:

« なんのこととはない、ずっと仙窟村にいればよいのだ | トップページ | 芥川賞どこへ行く »