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2013年12月13日 (金)

今年の漢字が「輪」、いつものようにひねくれた生存報告日記

 今年の漢字が「輪」になったということをネット記事で知りました。輪というと……東京五輪開催が決定したのは知っていますが(何年先? 年齢的に、私はたぶん見られませんが)それ以外にどんな要素があるのか知りません。いつもいつもものごとをナナメに見るような日記はよろしくないとは思いますが、今更のように思うのは、「日本人であるという一体感、均質性の消失」ということです。

 1964年東京オリンピックの頃、たぶん私は中学校1年生か2年生かそこらへんだったと思うのですが、日本でオリンピックが開催されるというのは国民がひとしなみに感じる共通の喜びだったように思います。まさに、「輪」のなかに自分がある、自分の家族がある、という一体感と安心感が、モノのない不自由、アメリカをはじめとする先進国とのあからさまな差異からくる劣等感をカバーした。6年後の大阪万博ぐらいまではそれはそのまま続いたように記憶します。ビッグイベントを楽しみ喜びを共有するその点においてわれわれは一体である。「世間」という言葉が機能しており、「そんなことをすると世間が許さない」とか、「世間様に申し訳ない」とかいうフレーズが有効だった。あの「世間」という言葉はどこへいったのか。

 いつしか私たちは個別の目標をそれぞれの家庭で、個人で、追いかけるようになりました。はじめて「個人」という言葉が、ネガティブな意味でなく、使われる時代が来たのだと思います。でもその「個人」という言葉の意味を、実のところ誰も本当には知りません。私も知らない。自分が「個人」かどうかも、わからない。

 常態として寂しさを抱えるようになったのは、確かなことです。もう「世間」が機能することはない。かといって「個人」という言葉の意味を親も学校の先生も知らない。どうやって「個人」の充実を見つけていいかわからない。その寂しさからふたたび「共同体」に回帰しようとする人もいます。SNSもそうだし2ちゃんねるもそう、私が書いているこのネット上の日記といういとなみも、疑いもなくいくぶんかその「寂しさ」に根ざしています。

 しかし、はっきりと、わかっていることがある。ふたたび東京でオリンピックが開催されても、大阪で万博が実施されても(まさかね)もうあの一体感が戻ってくることは、ない。私はこの寂しさと、個別に向き合うしかない。じゃぁなぜ複数のブログを運営? という矛盾にも、個別に向き合うしかない。

 「輪」は、かえってくることのない何ものかの象徴なのかもしれません。

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