« 圓生落語を聴かない秋 | トップページ | 国慶節休み終了、もう1月の考査までまっしぐら »

2013年10月 8日 (火)

楽器の群が私に教えたこと

 全く自慢でも何でもないのでありますが、楽器が、一般の家庭よりは多く、我が家にあります。

 ピアノはヤマハのG3のグランドとコルグの電子ピアノが1台ずつ、コントラバスが2台あります。電気ベースは4弦と6弦が1台ずつ、ギターはレスポールタイプが1台と同じくセミアコの12弦が1台。管楽器はずいぶん昔に買ったフルートが1つ(何と言って数えるのか? 1管?)それにオーボエが1つ。バイオリンは結局合計3台になりました。1つ1つ、ものすごく音色が違います。

 で、これを「演奏できるか」というと、できないのであります。フルートもオーボエも音は出ますが、ドレミファが押さえられるのと「演奏できる」のとは違う。オーボエなんか、私が音を出し始めると家族は蜘蛛の子を散らすように逃げます。幸い(というか、家族にとっては困ったことに、というか)家が北海道の山の中腹にあるので、何を演奏しようが隣家に聞こえないのであります。

 息子の1人は運動が専門でありましたが、もう1人は中学の頃吹奏楽をやっておりました。ですから家にはトランペットがあるというなら話はわかるのでありますがなぜだかそれは「ない」のであります。

 一種の病気です。この病人と30年間も一緒に暮らした1人の女性に、こよなく感謝であります。

 それはそれとして。

 何か楽器を「ぷう」と鳴らしてそれを録音して聴くと、愕然といたします。

 きちゃない、3秒と聞いていられない、汚れ濁った騒音であります。騒音でもハルピンやオールドデリーの騒音にはある種の秩序というものがありますが(生活のためにやむを得ず出る音)病人が病気ゆえに集めた楽器からその病人が出す音というのはなんというか人生の錆びそのものをこすり合わせるように不自然で醜く無惨にゆがんで破滅的で本当にひどいのであります。よく「聴くに堪えない」という表現がありますが、そんなものじゃない、もっと、もっとひどい。お腹の中の回虫も悶死するような、そんな音であります。

 なぜ、音を「出している時」にはそれがわからないか、録音しないとわからないかというと、音を出している時は自分の耳には、「出そうとしているその音の本来の音」が聞こえているからであります。それは、実は幻の音だ。実際に出ているのはかけ離れた音であるのですが、わからないのです。

 こう考えて、もっと愕然とします。

 そこまでわかったところで、でそれが正しいとしたところで、たかがそりゃ楽器の音だろう。

 33年間やり続けた高校での授業はどうなるのだ。

 たぶん残らず記録して再生してみたら、同じく聴くに堪えない、見るに堪えないものであるはずだ。

 こういう授業をしているはずだ、できているはずだ、というその思いこみが、楽器の音と同じく「幻」だったとしたら。

 初めて私は、恐ろしいことに気づいたのであります。

 そうすると、33年間で出会ったすべての生徒、全ての同僚の先生に、深く深く感謝、であります。

 今も私は授業(の、ようなもの)をしています。そのように考えるなら、「おはよう」と言いながら朝7時半に教室に入ると瞬時に教科書とノートをさっと出す、笑顔で私を迎える26人の中国人に、深く深く感謝、であります。全員で声を合わせて「おはようございます」と言ってくれる好ましい勉強家が受け止めているものは、私が「こういう授業になっているはずだ」と思いこんでいる「幻」と、実は違うのだろう。

 それに気づかなかった、つまり謙虚になれなかった33年間に、まさに「慚愧」であります。

 え? じゃぁ今は謙虚?

 このブログは……。

 ……今、この瞬間、この字を見てくださっているあなた様に、感謝、であります。

« 圓生落語を聴かない秋 | トップページ | 国慶節休み終了、もう1月の考査までまっしぐら »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/589238/58343116

この記事へのトラックバック一覧です: 楽器の群が私に教えたこと:

« 圓生落語を聴かない秋 | トップページ | 国慶節休み終了、もう1月の考査までまっしぐら »