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2013年8月23日 (金)

私語の止まない教室、それは実はとても危険……

 高校の教壇を去ってから1年半が経ちましたが、今なお、ある種の書籍を読んでいて、「こういうことだったのかも」と、考えることがございます。

 たとえば、絶え間ない高校の教室の「私語」について。

 道内の、昔は野球部が甲子園にも行きました、という公立校で授業をしたことがございました。

 さすが運動部の強い高校は違う、と私は感心しました。生徒は、運動系の部活動の顧問と文化系の部活動の顧問と、すれ違うときにはっきりと態度を変えます。考えれば当たり前かも知れない。それが「必要」なのだから。中には、「おはようございます」という挨拶も、運動系部活動の顧問だけにする、という生徒もおります。おぉ、合理的じゃん。

 卒業間近い、3年生の教室でのこと。1人の女生徒の立ち歩きがやみません。メモのようなものを持って、机の間をずっと歩いています。11人に何事か聞いています。

 「おい※※、授業中だろ、椅子に座れ。立ち歩くな」と私は注意。するとくだんの生徒は、「いいでしょ、今日の夕方、カラオケに行こうって相談してるんだよ。誰と誰が行くか聞いてんだよ」

 私は、「それ、今やらなくちゃいけないのか」と質問。彼女は、「今だよ。だって授業終わったらすぐに行くもん。卒業近いんだから」

 そこで私はしょうしょう強い調子で「授業終わってからやれ。卒業間際だからこそ、だ」

 彼女はしぶしぶ席に戻りながら「いいじゃんねぇ、うちら仲の良いクラスなのに」

 私は、考えました。仲の良いクラス……。

 私が見るところ、仲良くなんかありません。放課後の掃除のサボりがものすごく多く67名でやるはずのところが2人くらいしかいないから教室がものすごく汚い。仲が良いのはあるグループの中だけで、孤立している生徒は激しい排撃に遭うからしょっちゅう学校に来なくなる。それが全部の理由じゃないんだろうけどある生徒の手首なんかズタズタ。

 「うちら仲の良いクラス」という言葉の意味が、そもそも違うのだろうと、思いました。

 授業中の私語を聞いていると、タレントの噂、お化粧のテクニックについて、テレビ番組の感想、本日のファッションのお互いへの賞賛、昨日の夜の食事内容の報告……。

 当たり前ですが天下国家について論じたりはしないのだ。さすがに同じ私語でも男は少しましだけど、それだって今ここでする必要なんか絶対にない内容であります。以前そう言うと、「先生とあたしらとは違う」と言われましたが、当たり前だ、違わないと困る。同じだったら高校教師なんかできない。

 彼ら彼女らは、要するに「あなたはワタシの敵じゃないよね」と言っているのであります。しゃべっている内容には全く意味ありません。彼女らは、昨日ファミレス行ったら1ヶ月前に退学した××がいたよう、という「情報」をしゃべっていると自分で思っているかも知れませんが、実は「あなたワタシの敵じゃないよね、よかった、ワタシも今すぐあなたを攻撃したりしないよ」というそれだけのことをえんえん、830分から1520分まで、言い続けているのであります。まぁ「意味がない」ということでいうなら、この私にしても「夏目漱石はなぜ芥川の『鼻』を激賞したか」なんてしゃべっているのですから同様に意味がないのですが。

 「あなたは私の敵じゃない」

 「私もあなたの敵じゃない」

 その会話を、どうして注意されても注意されても、やめられないか。

 簡単であります。

 実は敵だからであります。

 彼女たちはどんなに自分で「冗談じゃない、友達よ」と言っても、『共同』の実体験が希薄なのでありますから、心の奥底にある「実は敵なのではないか」という不安から自由になれない。もともと生物というのは人間でもメダカでも、閉塞した場所に同じメンバーでは居続けられないように感性がプログラムされています。密集すると反発が起こる、そりゃ当たり前です。メダカの水槽の水の量を一定にして個体の数だけを増やしていくとある密度を超えたところで共食いを始め個体数を自分たちで調節しますが、人間だって『密集』には耐えられない。かくして、「あなたは私の敵じゃないよね、私もあなたの敵じゃないよ」というだけのことをえんえんしゃべり続ける「私語」がやまなくなるのであります。

 しかし彼女らの言葉と感性がちゃんとした『敵』を発見すると、私語はあっというまに(あるいは、一時的に)止みます。本当です。自分たちの言葉と感性でも把握できる『敵』がいる場合、くだらない私語に頼らなくても、『密集』が可能です。敵はワタシのそばにはいない。外部にいる。それはとびきり怖い理不尽な暴力教師かも知れないし、同化することの決してできない攻撃的閉鎖的な『制度』かもしれない。敵はそこにいる。ワタシとあなたの間隙には存在しない。ワタシとあなたには共通に『敵』がいる。だから2人は味方同士だ。

 当たり前であります。

 なんでこんなことを長々と考えたか。

 実は高校の教室の私語なんかどうでもいいのだ。それは私にとっては明白に過去であります。狭い空間に密集する時、明白な敵を発見しないと互いに向けての攻撃衝動から自由になれない。えんえん続く私語は実はあやうい。それは授業を壊すなんていうレベルでなく『臨界』を物語っているからだ。

 以上を今の日本社会に敷衍するなら……。

 えんえん、ツイッターのような『私語』を展開するか。

 あるいは明白な『敵』を発見するか。

 私たちの感性は、鋭く『密集』と『臨界』に反応し実は切実に『敵』を希求しているのであります。

 じゃぁ、どうするのか。

 私は、先人の『知』にすがることにする。書籍とはそのためにあるのであります。

 ……つづく。

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