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2013年6月10日 (月)

続・神戸の事件について。村上龍『寂しい国の殺人』

 神戸の事件について書き始めると、決して終わりません。いいかげんにしないといけないと思います。

 1997年の夏から翌年の春くらいにかけて、それはそれは沢山の本が出ました。私は砂川のいわた書店さんにお願いし、そのうちの20冊くらいを取り寄せて読んでみました。そして、驚きました。教師を終えて評論家になった人、精神科医、それからこういう事件があると決まって「おれにもいっちょうしゃべらせろ」と本を出してくる何が専門かよくわからない人、あるいは昔こういう事件の捜査にあたったことがあるというかつての公安関係者(少年による猟奇殺人は実はずっと昔から話題になってきた)、本当に多くの人が「出せば売れるから」という理由で何かを書きましたが、本当に何も知らない、この事件を解読する言葉を何一つ持たない人がいっぱい『識者』という看板をぶら下げて歩いているのだということが、わかりました。私の家にはテレビがないので(その時もないし今もない)見たことはありませんでしたが、そういう人を集めた座談会もたくさんあったそうです。識者、というのも考えてみれば不思議な造語です。『識』のある人が、『識者』と呼ばれて平気な顔をしているわけがないじゃありませんか。自分が『識者』と誰かから呼ばれて「はいそうです」と返事ができるということは識者ではないということです。私は、そういう『識者』が道の向こうから歩いてきたらハダシで逃げます。自分のことが認識できない人ほど怖いものはない。

 くだらない本をみんな捨てると、私の本棚のあるコーナーはガラガラになりました。

 たった1冊だけ、残りました。村上龍の『寂しい国の殺人』です。文芸春秋社はさすがだ、日本人のために意義ある仕事をした、と思いました。

 「神戸の少年だけではない、人間はみんなもともと壊れている、凶暴性を帯びている、経験不足の少年の中でそれがイマジネーションの豊かさのために肥大することがある。それが妄想の段階で留まることは異常ではない、しかし実行に移すのはきわめて異常だ、人間は家族、理念、法律、宗教、芸術などといった広い意味での『制度』を作りその暴走を阻止しようとした。その『制度』がある時機能しない、猟奇殺人が現出するのはその時だ。」

 という風に、私はこの書物を読みました。

 1984年生まれのわが娘は神戸の少年より1つ下です。長男は4つ下、次男は6つ下ということになります。言うまでもなく彼らの個性は本当に色々であり、村上が書物の中で言う「自分の子どもに対する危機感」は常に意識していました。自分の子どもを『疑う』ことと自分の子どもに正当な『危機感を持つ』ことは全く違います。彼らは父である私が少年の頃に犯した数々のファルスを(毒を持つ、とわかっているのにある種の蛾の幼虫にわざと触ってみるとか)一定程度なぞりながら成長しましたが、文部科学省が提唱した家庭の対話、などという馬鹿げたステレオタイプとは違ったやり方で『対話』はした、と思っています。決して妥協しなかったことはいくつかありますが、その1つが「家にはテレビを置かない」ということでした。長女は相当に腹を立て、ある夜、私の電子手帳の200件の対人情報をすべて消去し、「アアテレビガミタイ」と書き換えるというとても愉快な『反抗』を展開しましたが、それ自体がテレビ無し家庭を運営した『成果』だと思っています。ある人はテレビのない我が家を見て「子どもに対する虐待では」と言いましたが、奇声を発するしか芸のないタレント(芸がないのだから実際はタレントと呼ぶのはおかしい)の番組を意味のあるもののように家庭に導入することとどっちが虐待なのか、と思いました。今も思っています。そしてああした番組を家庭に押しつけるのは言うまでもなく国家を運営する人間の策略です。そうでなければ莫大な金を使ってあのような『番組』をつくるわけがありません。私がアフガニスタンで羊を飼う牧童だったら、柵の外にはどんな世界があるか、想像しようとしない群像であることを羊たちに期待し、その放棄を強制します。想像力というのはつねに権力にとって脅威です。

 3人の子どもはそろって個性的な愉快な人間であります。それは彼らの努力のたまものであり、私が「育てた」のであありません。私が間違ったらどこまでも、深々と「間違った」でしょう。実際に間違っているかもしれません。一番正当に『危機感を抱』かなければいけないのは自分自身に対してであります。

 私は村上龍の『寂しい国の殺人』を何十回と読みました。生徒とも一緒に読みました。ある男子生徒は「この作者の使う『システム』って言葉はなんぼ意味が深いのよ」と言いましたが、よい指摘だと思っています。彼もまた、想像力の暴走に悩みました。

 人間の想像力は時に凶暴な領域にまで及び、自殺を含む『衝動』にまで及びます。それを阻止する『システム』が(他に適当な言葉があるような気がする)正当に身の回りに機能しているかどうか、不断に点検していたいものだと思います。

 最後に。

 村上龍はこの書籍の中で、凶暴な衝動を緩和する人間の装置の中に、『芸術』があると指摘しました。

 豚の臓物をステージから観客に向けて投げつけながら音楽を演奏したオジー・オズボーンも、作曲する時には貴族の書斎で、立派なカツラをかぶって、盛装した、というハイドンも、ともに芸術家です。私は幸運なことに両方を聴くことが出来ます。

 『大地』のマーラーが、『エリーゼのために』のベートーベンが、『トロイメライ』のシューマンが、そしてもちろんモーツァルトが、実生活ではどんなひどい人生を送ったか、とてつもなく美しい音楽を創りながら、そういうものを取り出したあとの残りかすのようなものをなぜあのようにひどいやり方で周囲の人間にぶつけ続けざるを得なかったか、なんで精神病院から出たり入ったりしないといけなかったか、わかるのであります。だからこそ、深い尊敬をもって、感謝を込めて、私は聴くのであります。

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