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2013年6月 3日 (月)

決して忘れることのできない校長先生もいらっしゃいました、30年もたったが

 それがメインの話題ではなかったのですけれど、教頭先生、校長先生の話になりました。福州かもめさん、ご指摘ありがとうございます。おっしゃるように、管理職といわれる先生も教諭同様、いろいろです。人間味にあふれ、細やかな配慮をお持ちになり、いつも一人一人の教諭の苦労にひそかに寄り添う、そういう教頭・校長もいらっしゃいます。しかし福州かもめさんがおっしゃる通り、教諭が教頭になるには、教頭が校長になるには、学校長の推薦がどうしたって必要なので、そこにいろいろな人間のドラマ(といっては、ほめすぎ?)が生まれることになります。推薦する校長にだって相応の信念、世俗的な言葉を使えば「好み」が存在するからです。

 それはともかくとして。

 めったに出会えない、忘れられない校長先生のお話。

 もう、20年をはるか超えて昔の話になりましたし、今この記事を当事者が読んでもわからないと思うので、書いてみるのであります。

 高校生の子どもにテレクラ(おおレトロな。当時そういう言葉があった)で稼がそう、生活費を入れさせようとした、母親がいたのであります。それほど珍しいケースではありません。その、高校生、というのが、私の担任学級におりました。彼女はそれがいやでいやで、でもまぁ実の母親のことだから仕方なく応じたのであります。

 ところが母親の要求が、それよりしょうしょう、エスカレートしました。テレクラよりもう少し多額の金銭になる仕事(?)をするよう、彼女に教唆したのであります。彼女は、家を出ました。

 家を出ても、彼女は学校と学校の友達は愛しておりますから、なんとかして通おうとしたのであります。通常こういうケースでは家出と同時に学校にも来なくなるのですが、彼女は休み無しに学校には通おうとした。

 どうしても無理があります。相談を受けた私は、彼女の希望をかなえるべく、不自然は承知で某所に彼女を一時的に住まわせそこから学校に通わせることにしました。

 今にして思えばそんなことができるわけがありません。わずが45日で母親が学校に乗り込んできました。娘を帰せ、という当然の要求であります。もちろん母尾は単身では来ない。親戚、というふれこみの体格の良い人を連れてきました。

 さあ、どうする。母親はその親戚(?)と一緒に玄関でわめいている、娘は身を固くして教室にいる、わけのわからない生徒達は授業なんかそっちのけで「見物」を決め込む。

 私は校長に全部を打ち明けました。

 当たり前の校長なら、出過ぎた真似をするな、生徒を家庭に返せ、家庭で解決させろというところだ。その時の校長は校長室に当該生徒と母親と私を入れ、しずかな話し合いを提案した。直接的な言葉は使わず、何か家出に至るような無理な要求なり家庭の問題なりが、あるのではないか、と母親に問いかけた。驚くべき事に、本当に驚くべき事に私の非は全面に出して追求しなかった。私の非ってそりゃ100200もあるのだけど、今にして思えば校長は職を賭したわけだ。どこの世界に、娘の家出を幇助する担任がある。だいたいこの母親が学校を出てすぐに教育委員会に電話をかけりゃ、私じゃなく校長が職を失う。何か校内の問題で職を解かれた校長のそれから先ってまぁ悲惨だ。どこの大学の教官にもなれない。どんな機関の顧問職だってついてこない。

 最後までただのひと言も私に苦言も指導も行わなかった、この校長の懐の深さは生涯忘れるものでない。

 この校長には恩を返さないと、と思うのでありますが、実のところ「恩を返す」方法は、「ない」のであります。校長というのは一個人じゃない、ひとつの「機関」につけられた名なのだから。

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