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2013年6月 6日 (木)

神戸の事件から16年

 5月の終わりから6月中~下旬にかけて、毎年この季節にさしかかると思い出すこと、というのがあります。

 言うまでもなく1997年に神戸で起こった、あの凄惨な事件です。

 時代が平成と呼ばれるようになって、日本が経験した大きな事件は何ですか? という話題になると、私はかならず4つを思い出します、阪神淡路大震災、オウム真理教による松本と東京地下鉄構内を事件地とする無差別テロ事件、それに神戸の連続児童殺傷事件、4つめが東北太平洋沖地震です。

 被害規模はもちろん東北太平洋沖地震が最大です、そして性格から考えると、2つの地震は、「起こった」のです。サリン事件と神戸の事件は、人間が「起こした」のです。

 私はとりわけこの神戸の事件のことを、ずっと忘れません。この季節、必ず思い出します。3月に最初の被害者が(2人の女子児童)、そして5月には11歳児童を被害者とするもっとも凄惨な事件があり、628日、犯人は逮捕。逮捕されたのが14歳の中学生だったということを知り日本中がパニックになりました。この時に私たちは北海道滝川の私立病院に勤務する精神科医を囲み、学習会を行っています。しかし正直に申し上げて、「何もわからなかった」。精神科医は有能なかただったし主宰した人たちも立派な見識を持っていた。ただ、事件を読み解く文脈を僕らはもっていなかったのです。ただただ、混乱を深めるばかりでした。

 今なお何もわかりません。

 しかし、わからなくても考えないといけません。それはあらゆる日本人の責任です。日本の刑法や刑事訴訟法、憲法を含む他のあらゆる法律は(とりわけ教育基本法と学校教育法は)、

 「人間はもともとその本源の性質を善として生まれてくる」

 という共通理解をもとに立文されています。(立命館大学の法学部講義ノートより)この少年には、手を染めた異常凄惨な事件に匹敵する生誕からの生育条件の欠損や異常が、あったのかなかったのか。

 ヒトは、同じようにはっきりとした物的・精神的な養育上の不備がなくても、凶悪な想像を暴走させることが「あり得る」生き物だとしたら、法律も学校教育(私はこの『教育』ということばが大嫌いだが)も根本的な不備を抱えているのではないか。

 ということが、神戸の事件から私がずっと抱き続けている疑問なのであります。少なくとも少年法はこの事件を契機に大きく変わった。もっと変えるべきだという人もいる。法律の条文をいじって何かが防げるわけではないという人もいる。「排除」の論理でかような事件に対処しようとするのは、こちらがわに清浄清明な世界があり、あちらがわに異常混沌の世界があるという傲慢にもとづくものである、という反対意見もありました。今なおあります。私がずっと考えているのは、自分の中に、あるいは自分が育てている大事な子どもの中に、神戸の少年のような性格の片鱗があるかないか、その想像力をなくしてはいけない、ということです。

 神戸の少年は特別な異端なのだ、と考えることはとても楽です。それは一種の判断停止だし、じじつそうやってかろうじて無理矢理安心しようとした人は数多い。しかし絶対にそうじゃない、そのことは、追走するような形で日本中で起こった少年犯罪と自傷、自殺の件数を見ても明らかだ。学校が悪い、この家庭のどっかが悪かったに違いがないのだ、管理教育の問題だ、戦後教育の限界だ、物質と金銭至上主義の戦後体制がそもそも問題をはらんでいる、いやゲームだテレビだ映画だという論にすがった人たちの考えはよくわかる。問題を簡単にして早く安心したかったのだ。

 こちら側に清らかな世界がある。

 あちらがわに異常凄惨な世界がある。

 それがそもそも無理で……。

 ……続きは、黒河からの一人旅が無事に終わり、生きて帰ってきたら考えます。

 切符を買っちゃった今となっても、「先生絶対に無理です」という人がいる。自分の国の治安を少しは信用しましょうよ。

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