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2013年2月28日 (木)

中国の大学生は森鴎外の『舞姫』を好む

 最初の授業は3年生でした。24名のクラスのはずですが、19名しかいません。学習委員長さんに「空席は?」と聞いてみると、「まだ故郷から帰って来ていません」という返事。

 へぇぇ、と驚く私。1年生はもちろん全員がびしっと揃って、ニコニコと新年の教室へ私を迎えてくれました。ちなみに中国の新年というのはもちろん210日です。2週のあいだお正月騒ぎが続き、締めくくりには盛大な花火が上がります。路上では爆竹が鳴ります。

 よく、「西洋人は火薬を発見して武器を作り、中国人は西洋人より早く火薬を発見したのに、作ったのは花火だった」といいますが、それは本当なのでしょうか。

 春節の最終日にはこれでもかというぐらい爆竹が鳴り、それもいい大人が、それほど人通りもないだろう、誰も感心してくれないだろうというようなタイミングと場所で、鳴らします。誰かに見せる、聞かせるというのではなく、ドメスティックな行事、縁起かつぎの『神事』なのかもわかりません。

 5名も欠席者のいた3年生の教室ですが、出席者はひたすら真面目でした。夏目漱石からです。どうしてもここでやってみたいことがありました。「主語」の問題です。

 「親譲りの無鉄砲で子供の時から(原作では『小供』)損ばかりしてゐる」を、教科書の編集者は「因乗承了父母的遺伝、我自幼行事魯奔、尽干一些賠本児的事情」と訳します。夏目漱石が使わなかった主語を、どうしても使ってしまうわけです。これが『俺』のはずなのに『我』が使われるという以上の、翻訳上の無理、というか限界が、あります。

 夏目漱石がこの小説を書いたとき、このような散文調で小説を書ける人物はいなかったはずです。言文一致運動の旗手である二葉亭四迷が「薔薇の花は頭に咲きて活人は絵となる世の中独り文章而已は黴の生えたる陳奮翰の四角張りたるに……」なんて書いている体たらくなのですから。まぁ『平凡』ぐらいになると少しは自分で言文一致の意味がわかってきたか? と思える文章ですけど。(偉そうだね私も)夏目漱石大先生が、明治中期~後期のこの時代、立派に読者をして語り手に共感抱かしめる文章を書いてのけたその功績は山より高いと思うのですが、その『共感』は井上ひさしの言うように、『俺』という主語を使わないことにあります。

 日本語の場合自然と「俺は」「私は」というと「お前とは違うぞ」というニュアンスに、なっちゃうのです。だからこそ、面妖な人間との隔絶を小説的モチーフにしているもう片方の小説では、「我輩は猫である。名前は未だ無い」(我是猫、還没有名子)と、対照するわけであります。

 アンケートもとったのですが、おもしろいことがわかりました。

 日本の小説、大人気です。川端康成なら『伊豆の踊子』『雪国』芥川なら『鼻』『地獄変』あたりは普通に読んでいます。森鴎外の『舞姫』も、相当の生徒が読んでいました。日本の大学生はまず読まないでしょう。仕方ない面もありますが。中国語訳はもちろんきちんと噛み砕いてるけど、日本じゃ読もうとすればやっぱり「石炭をばはや積み果てつ」なんだから。

 次の授業も楽しみです。

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