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2012年9月 8日 (土)

日本で、中国で……雫さんのコメントからあらためて考えること

 日本で高校生に日本語を(日本語そのものを、というより日本語で書かれたさまざまな文学作品を)教えるのと(私は「教える」という言葉に今なお、かすかな抵抗と違和感を感じておりますが)中国で中国人大学生に彼らが生まれて初めて出会う日本語を教えるのに、何か違いがあるのか? 共通点は何か?

 それはたくさんあると思います。だいたい、中国でやることの最初は大きく口を開けて「あ、い、う、え、お」と発音を示すことです。五十音図を指差しながら。ある程度五十音図を読み終わると、今度は全員を立たせ、1人ずつ指名して指で押さえたところを読ませ,10問全部が正解したら座らせ、1問でも間違ったらそのまま立たせておきます。

 ところが1年生でこの段階だった人が、4年目になると、もう日本人教師と一緒に公安へ居留許可証の取得のための通訳として出かけ、立派に責任を果たせるようになります。中国人は空港職員でも銀行窓口でも公安でも病院窓口でも絶対に中国語しか話しません。通訳は大学職員ではなく4年生がつとめます。(まれには、3年生でもう通訳ができるのがいる)

 この点で、随分ちがいます。

 一方、同じだと思うこともあります。

 改めて思うのですが、教師は、「勉強をさせる」ことなんか、しょせんできない、ということです。日本でもそう思っていましたが、ここに来てさらにそう、強く思うようになりました。

 教師にできることは、勉強したいと切実に思っている人に、その「筋道を示す」。それだけです。

 この点では日本と中国と同じです。ところが日本には「勉強したい」と切実に思わせる動機の土壌がないから、さまざまな強制、システムが生まれることになります。あるいは大学というブランドを借りたりします。

 若者が「どうしても☆☆を身に着けたい、学びたい」と思わない限り、教師は無力なのだと思います。

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